期待

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期待

 第三スタジオにNYPDの鑑識が入ったのは、その翌日だった。  彼らは何の前触れもなくやって来ると、スタジオの写真を撮ったり、フロアに薬品らしきものを撒いたりして、隅々まで調べていった。そのものものしい集団の中に、ゴードンの長身もあった。彼は彩人と接する時とはうって変わって、真剣な面持ちで鑑識の人間にあれやこれやと指示していた。 「ルーシーが殺されたの、第三スタジオなんだって」  リハの合間、ダンサーたちがくつろぐラウンジで、誰かが噂していた。耳ざとい者はすでに子細な情報を知っていて、彼らによれば凶器はスタジオにあった置物とのことだった。ルーシーの遺体と一緒に遺棄されていた凶器が、三美神のブロンズ像の一体だったのだ。昨夜、ゴードンは第三スタジオに入った時、そのことに気づいたのだろう。 「最悪。あそこにはもう入れないわ」 「夜は近づかないようにしなきゃ」  ラウンジや更衣室のあちこちで、そんな囁きが交わされた。みんな自分は関係ないような顔をして、でたらめな憶測や噂話に花を咲かせている。  この中に、ルーシーを殺した犯人がいる――  ただ一人、彩人だけがその事実に身震いしていた。  九月も終わりだというのに、蒸し暑い朝だった。ジョギング中のランナーたちは額に汗を浮かべ、一緒に信号待ちをする散歩中のパグはハアハアと舌を垂らしている。まだ低い位置にある太陽が、マンハッタンのビル群をぎらぎらと光らせていた。  ハーストタワー近くのスターバックスでキャラメルマキアートを買い、本部へと続く道をとぼとぼと歩いた。その途中、古いカフェのテラス席に、ジョルジュの姿を見つけた。  彼はひさしの陰でゆったりと足を組み、小さく畳んだ新聞を読んでいた。持て余し気味の長い足の先で、時々リズムを刻むように靴の爪先が揺れる。鼻先にリーディンググラスを引っかけ、眉間には機嫌の悪そうなしわが刻まれていた。  あれは別段機嫌が悪いわけではなく、小さな文字を読む時の癖だ。ただコーヒーを飲んでくつろいでいるだけなのに、佇まいから成熟した知性や気品が漂っている。同じ人間なのに、百年生きてもあんな男になれる気がしない。 「おはようございます、ジョルジュ」  彼は顔を上げ、まぶしそうに目を細めた。グレーの瞳が朝日を受けて、かすかに青っぽく染まる。 「おはよう、彩人。とうとうあの角にもできたな」  ジョルジュの視線にうながされ、彩人は振り返った。先ほど立ち寄ったスターバックスの前には、まだ長い列が続いていた。 「よくあんなものに並ぶ気になるものだ。アメリカ人は、みんな忙しいというのに」  皮肉たっぷりのジョルジュの口振りに、彩人は苦笑いを浮かべた。とっさに手にしていたカップを背後に隠す。 「……ジョルジュは、こういうカフェの方が好きですか?」 「別に。この辺りじゃ、一番マシというだけだ」  ジョルジュは鼻を鳴らし、コーヒーをすすった。この店は通の間では名の知れた名店だ。マシどころの話ではない。  どうしてこの人は素直に褒められないのかな――そう思うと、自然と笑みがこぼれる。こんなところを可愛いと思うのは、変だろうか。 「それで、あの……どうでした?」 「うん?」  ジョルジュは首を傾げた。彩人は視線をさまよわせながら、慎重に言葉を選んだ。 「この間の、キャリーケース」 「ああ、あれか」  彼はふっと笑うと、オペラ歌手のような仕草で両手を広げ、 「問題なし(パズ・デ・プブレム)」  と答えた。なめらかなアクセントにこめられた、静かな自信。 「昨日返ってきたよ。血痕どころか、髪の毛一本見つからなかった。NYPDは仕事が早い」 「そうですか……」  彩人は相好を崩した。決して疑ってはいなかったが、それでも良好な結果に安堵した。  あの夜、ジョルジュは自身のオフィスで仕事をしていた。アリバイを証言できる人間はいないが、遺体をどうやって運び出したのか証明されない限り、逮捕されることはない。加えて殺害する動機がない彼は、彩人よりもずっと犯人から遠い位置にいた。NYPDは自ら彼の潔癖を証明したも同然だ。  ざまみろゴードン。彩人は心の中で舌を出した。  ジョルジュはコーヒーを飲み干すと、新聞を脇に挟んで立ち上がった。彼に続き、本部へと歩き始める。 「実際のところ、ジョルジュはどう思います?」  路上に放置された自転車をよけながら、彩人はたずねた。 「カンパニーの誰が、ルーシーを殺したんでしょうか」 「さてね」  ジョルジュは肩をすくめた。彼のフェラガモの革靴が、乾いた路面でこつこつと音を立てている。 「私たちが推理ごっこをすることに意味はない。ダンサーの本分は踊ることだ。その分野はあの大男に任せて、君は君がやるべきことに集中すればいい」 「はあ」彩人は曖昧にうなずいた。どこかの誰かが、同じようなことを言っていたような気がする。たとえば、あの大男とか。 「いいか、彩人」  ふいに、ジョルジュが足を止めた。細められた彼の瞳は、建物の影がかかって鋼のような色に沈んでいる。 「確かに、ルーシーの死は悼むべきものだ。だが、いつまでもそれに囚われていてはいけない」  ほっそりとした指に、前髪をすくわれる。そのさりげない仕草に、またざわりと心臓が騒いだ。 「死はそこでお終いだ。何も生み出さない。けれど、生きている私たちは偉大な芸術を生み出すことができる。君が新しいロミオを作り出すことを、私は期待している」  偉大、期待ときたか。ついつい弱気な笑みが漏れてしまう。彩人の華奢な肩にのしかかる重圧が、より質量を増した。 「僕にできるでしょうか……そんなこと」 「できるから君を指名したんだ。それとも、私の采配にケチをつけるつもりか?」 「い、いいえ!」慌てて首を振ると、彼は心底おかしそうに肩を震わせた。 「君はからかい甲斐があるな。妙なのに引っかかるなよ」  ジョルジュは、新聞でぽんぽんと彩人の胸を叩いた。妙なのとは? 聞き返す前に、彼は歩き出していた。  間もなくして、本部の直線的なエントランスが見えてきた。まだ正門は閉じていて、そばの関係者入り口をくぐり抜ける。建物の中はほどよく冷えていて、汗ばむ肌に心地よかった。 「それじゃあ、また後で」 「ああ」  二階へと続く階段の前で、ジョルジュと分かれた。その時、背後で、 「おはよう、ジャック」  と、挨拶する彼の声がロビーに響いた。  ジャック? そんなダンサーいただろうか――  何気なく振り返ろうとすると、床にモップがけしていた清掃員と肩がぶつかった。 「――っ」  清掃員が、じろりと睨んできた。背が低く、不健康そうな顔色の男だ。その穴蔵のような陰険な目に、背筋がぞっとした。  彩人は軽く会釈だけして、足早に更衣室へ向かった。
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