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声をかけたのは自分から。撮影に付き添わせてよ、と申し出た時の息吹の顔は、ずっと忘れないだろう。
いいや、自分と過ごす日々の中で、向けてくれる言葉も笑顔もなにもかも。蒼依には息吹と過ごす全てが愛しくて愛しくてたまらない────息吹が蒼依といる時、つついたら泣きだしてしまいそうな顔をしていることが、どんなにか蒼依の胸を震わせるか。
息吹は蒼依がそこにいるだけで泣きそうな顔をして笑って、苦手であるだろう会話を顔を赤く染めてして、蒼依が微笑むとまた泣きそうに笑う。
なんて幸せなんだろう。頑張らなくていい。自然な俺でいてもいいんだ。息吹は蒼依にそう思わせてくれる存在。
息吹といれば、自分も大気の一部となり、穏やかに存在していられる。
なのに……いつからだろう。息吹の泣きそうな顔に劣情を感じる自分がいる。
夜、ベッドの中で息吹を思いながら下腹に手を滑らせたのは、一度や二度ではない。
それも、そうする時に頭にあるのは、無理に蒼依に押さえつけられて、涙で顔を濡らしながら蒼依の熱を受け入れるあられもない息吹の姿。
(息吹。息吹。俺のことで、もっと泣いて……)
そして、頃合いを見て息吹の家族の話を出し、茜音が息吹の一つ違いの姉だと理解した蒼依は、自身で自宅に招かれるチャンスを作ったのだ。
(あの顔、最高だったな……)
さっきまでの大雨が嘘みたいに、すっかり晴れ間の広がった空の下、蒼依は少しうつむいて、片側の唇を上げた。
息吹はきっと、蒼依が茜音目当てで家に来たのだろうと思った筈だ。そして、蒼依が茜音と付き合うかもしれないとも。
勿論、しばらくはそうなるのもいい。そうすれば息吹の家に行く口実が増えて、息吹と過ごす時間が増える。
そうすればそのうち、蒼依が特別な気持ちで息吹を思っているように、息吹も蒼依を思うようになるかもしれない。茜音と楽しそうに過ごす蒼依を見て、胸を焦がしてくれるかもしれない。
(……そうしたら、息吹はどんな顔をするだろう。今度こそ泣くかな? 泣いたらきっと、きれいな透明の雫が垂れる。何色にも染まらない、汚れのない、綺麗な透明の雫が……)
想像すると、背中がぞくぞくした。
──蒼依はこの時、息吹が既に恋の対象として自分を見ていることには気づいていなかった。
幼稚な思いで息吹の気持ちを自分に向かせるのだと、とてもとても楽しい気分で自転車を押すのだった。
2021.10.10
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