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「聞いてほしいことがあるんですが、綾子さんいいですか?」
私の短い髪を指の上で遊ばせながら、優衣さんが尋ねてきた。カップを机の上に置いて、いいですよと答えた。自分の中の懊悩は一旦胸にしまうことにした。
「私、お姉ちゃんになるんですよ」
ドライヤーの温風を髪に当てながら、優衣さんは優しい声で言った。そこには純粋な嬉しさのほかにはなにもなかった。
「お母さん、妊娠していたんです。すごい年が離れちゃいますけど、私に妹ができるんですよ」
「それはよかったですね」
「はい」
そう言って優衣さんはドライヤーの電源を切った。
このとき、私は優衣さんと別離するべきだという観念に捉われた。彼女の家庭に新たな存在が登場する。そうであれば、彼女の家での役割も変わってくる。なあなあにいつでも崩れ落ちそうな生活を過ごしているだけの私など、優衣さんの前から消えた方がいいのではないか。そう思えて仕方なかった。
ふと振り向くと、優衣さんの顔がすぐそばにあった。化粧をせずとも美しい若い魅力がそこかしこに秘められた顔である。私のように終の住まいを探す人間が捕まえたままにしていてはいけない存在であると思った。それでも、優衣さんに別れを切り出すことは今はできなかった。私は彼女のいない生活を未だに想像できなかったのだ。
布団に入ると、優衣さんはすぐに寝てしまう。羽毛布団の下で寝息を立てている彼女の髪にこっそり触れる。この感触も、温かさも私のためにあるべきではないと思った。私は優衣さんに背中を向けて眠ることにした。しかし、私に眠りは訪れなかった。彼女がいなくなるという事実が私を怯えさせたのだ。ドクダミの野原が私の頭に浮かんだ。あの鬱蒼とした野原にすがる日々がまた来るのだと思うとやるせなくなり、布団を頭までかぶった。そうすると、優衣さんの寝息も聞こえなくなった。世界にひとりしかいないと錯覚し、自分の存在が消えてしまえばいいと、そうすれば楽になると考えた。けれども、夜の闇は私の姿を消し去ることなどせず、そのまま朝を迎えさせた。
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