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会社の中でも新事業の話題が表立ってではないが、噂されるようになっていた。人員整理の一角だとせせら笑うものもいた。その事業の一員に私も含まれていることは人事部を除いてはごくわずかな人物しか知らなかった。私自身、武田部長以外に話していなかった。武田部長は、「築島さんの好きにすればいいよ」と言うだけだった。昼食のとき、私は浜谷さんにそれとなく愛知の事業所について聞いてみた。彼女が言うには、こちらのオフィスとは違って狭いが和気藹々としているということだった。けれども彼女は向こうに戻ろうとは思っていなかった。彼女は東京にすでに染まっており、それどころか今付き合っている彼氏と結婚して寿退社することを夢見ていた。
「なに、あんたも名古屋の事業所のこと気になっているの?」
米田さんが勘繰ってきたので、私は社内のことでですからと言葉を濁しておいた。私が異動を打診されていることをまだ相談する必要はなかった。米田さんのくちぶりからして、彼女には異動の打診は来ていないらしい。東京の本社である程度重要なポジションにおり、結婚してマンションすら購入している彼女は、はなから新事業の頭数に入っていないのだろう。気楽でいいことだとつい心の中で羨んでしまった。
やはり、東京に残っていられるように交渉してみようかと考えもした。しかし、それを説得できる材料はなにも無かった。私の仕事などほかのひとでもすぐにやり方を真似られるものであり、専門性を持つものではなかった。不眠症も、悪い方向へ進む材料にしかならない気がした。東京の水が合ってないと言われてしまえば返す言葉も見つからない。優衣さんのことは口にすることさえできない。結婚を考えている彼氏がいると嘘をつくことも可能だが、その場合寿退社の方へ舵を切られる可能性があるし、なによりそんな嘘はすぐにバレてしまう気がした。結局のところ、私が会社の異動に抗う術はないのだ。優衣さんとの共同生活を続けるためには、転職するほかないが、いざ転職活動をする気力もキャリアも私にはないと再確認させられた。そんな風にため息混じりに進める業務は決して捗るものではなく、家に帰るのもだんだんと遅くなっていった。
「仕事大変なんですか?」
家に帰ると優衣さんが寂しそうに尋ねてくる。異動の打診を受けた日から平日に一緒に晩ご飯を食べることがほとんどなくなっていた。そんな感じですと疲れた顔で優衣さんにだんまりを続けるのも心の負担になっていた。夜、彼女が横で眠っていると、その顔が夜の闇に溶けていって、優衣さんの存在も希薄になり、このまま消えてしまうのではないかと錯覚することさえあった。不眠が私をまた苛みはじめたが、それを誰にも打ち明けることはできなかった。
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