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 十一月半ばになっても正式な辞令は降りなかった。しかし、会社が早期退職者を募り出したことで、グループ会社を含め、社内は悪い賑わいが起こった。株価も目に見えて下がり、本社の人間もうかうかしてはいられないと言う気持ちになっていた。そんな険悪な社内の中で、私は前よりも息を潜めて仕事をするようになった。煙草を吸うときも、社内の喫煙所を使わずにわざわざビルの一階にある共用の喫煙所を使っていた。家では優衣さんにお願いされない限り煙草を吸っていないが、喫煙の回数は一度減ったのにまた増えてきた。炎で燃えて短くなった煙草の吸口にリップの色が移った吸殻を見るとき、私はいやな気持ちに何度も襲われた。それはドクダミを籠に入れたときに見た用務員の歯のように私を責めているような気がしてたまらなかったのだ。一服を終えて仕事に戻っても最初に確認するのは人事部から面談の連絡が来ていないかであり、ほかの業務をしているときもそれは頭から離れなかった。常に斬首台の上にいるような心地で仕事をしていた。  唯一、救いだったのは、優衣さんが変わらず、というよりも前よりも節度を持って接してくれるようになったことだった。一緒にいる時間が減っていく中で、優衣さんは毎晩美味しいご飯を作っておいてくれた。休日には私の気を晴らそうとどこか秋めいた景色や美味しい食べ物のある場所へ案内してくれた。そうした中で、優衣さんは、私の手を握ることはあってもそれ以上距離を縮めようとはしなかった。彼女の頭の中には、まだ見ぬ妹への愛がすでに生まれているのか、小さい子供を見るととても嬉しそうに笑ったあと、どこか遠くを見つめるのであった。私はそんな優衣さんに、この生活の終わりが近づいていることを打ち明けることができなかった。打ち明けるくらいならさっぱりと仕事を辞めて新たな仕事を見つけた方がいいと思う反面、新たな家族のできる優衣さんは、もう私のもとから離れて、真っ当な少女の人生を過ごすべきだと思った。思えば、休日は優衣さんと常に一緒に行動していた。私は優衣さんの学生時代を邪魔しているのではないかと今更ながらに思った。それならば、私は彼女を縛る鎖になっているのではないか。勝手に彼女を自分の存在意義にして、優衣さんが離れていこうとしないのをいいことに、手元に置いている。本当は、あの日見た鳩のように、優衣さんも自由に空を飛ぶべきではないのか。こんな先行きも見えず、ただ沈没していくだけの船に彼女を乗せておいてはいけない。何度もそう思うのであるが、そう思うたびに優衣さんは可憐な笑顔を私に見せてくる。いつまでも離したくないと思うような笑顔を。私はどちらにも立ち行かなくなり、減った睡眠薬のせいにして、うまく眠れない夜を過ごしていた。
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