16/29
前へ
/132ページ
次へ
 デスクに戻ると、人事部から面談の連絡が来ていた。ちょうど一週間後の木曜日だった。杉下部長のほかに当部の部長も参加することとなっていた。おそらく、異動前の最終確認だろうと思った。了承の連絡だけして、割り与えられている誰にでもできそうな仕事に手をつけはじめた。  仕事中、頭から離れなかったのは、高田さんが会社をやめるということだった。一抹の寂しさも感じてはいない。ただ、あのようなひとでも次の転職先を見つけられるのだということが私の心を動かした。しかし、だからといって、私自身も簡単に転職ができるというわけではない。それに、もう優衣さんとは別離したのだ。私と彼女はもう赤の他人にならなければならない。その方が優衣さんのためになる。私はそう言い聞かせた。  全くのやる気もなく、今日の分の仕事に見切りをつけた私は、久しぶりに定時に帰ることにした。それに文句を言うものなど誰もいなかった。部内では、私が異動となることは共通していた。すでに私は他所の人間になっていたのだ。  オフィスビルから出た私は、なんとはなしにビルを見上げてみた。こうして見上げたビルはよそ者を寄せ付けぬ無機質な冷酷が宿っていた。いくつもの階層から明かりが漏れている。その中ではデスクに向かって働くものがいて、熱心に新たな事業計画をプレゼンしている者もいるのだろう。そうした利益追求を目的に高く伸びたビルの中にドクダミの野原はない。当たり前のことであるのに、私は思わず笑えてしょうがなかった。ビルの下で他人からは意味もなく笑っているように見える私の足にドクダミの蔓が絡まっている気がした。それを振り払うように歩速を上げて駅へと向かった。あの地には戻る気はないのだ。  満員電車を抜けて駅のホームに降り立ったとき、私は線路を思わず覗いた。ここに降り立てば、あの男性のように二条の光に照らされながら、死を迎えることができる。両親に先立つ不孝など知ったことではない。そう思ったが、私の死が誰かの心を痛める。私の轢死体を見て残酷な夢に悩まされるひとがいる。そう思って、足が止まる反面、今日もどこかの電車が止まった。世間にはただそれだけの影響しか与えないとニヒルに考える自分もいる。ただ、今日の私はまだ線路には飛び込まない。冷蔵庫にまだまだ新鮮な食材が残っているから。優衣さんほどではないけれど、料理のできない私ではない。あの食材を無駄にすることは田舎育ちの私にはできない。家へと帰る道すがら、冷蔵庫の中になにがあったかを思い出す。トマトがあった。それから豆腐も。他にはなにがあっただろう。優衣さんはあの食材でなにを作ろうとしてくれたんだろう。そう考えてからかぶりをふった。もう、彼女は私の部屋にはいないのだ。 ポツポツと雨が降ってきた。鞄の中には折りたたみ傘があるが、家までそう遠くないので、濡れたまま帰ることにした。そのほうが今の気分には相応しい気がしたから。
/132ページ

最初のコメントを投稿しよう!

54人が本棚に入れています
本棚に追加