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朝、目が覚めるとやけに喉が渇いている。水道の水で喉を潤し、そのまま歯を磨いた。置き時計は起床予定時刻の六時半にまだ至ってないことを教えてくれている。しかし、もう一度ベッドの上で横になる気は起きなかった。
珈琲用の注ぎ口の狭いやかんに水を入れ、コンロの火にかける。それから、電動のミルで珈琲豆を細かく挽いて、コーヒーフィルターの中に雑に入れた。煙草を吸いながら、やかんがコンロの青い火に炙られているのをじっと見つめる。朝一番に、こうして珈琲の準備をしながら煙草を吸うことは、私の数少なくしょうもない生き甲斐のうちのひとつだ。この時間を寝ぼけた頭は幸福だと錯覚する。挽いた珈琲豆の甘い香りと、やかんのから立つ湯気と、煙草の煙。これらは、平日の朝の気怠い時間だからこそ、その魅力を増加させる。他の家庭では騒がしく朝の準備のあれこれをしている時間に、こうして自分だけの時間を作り出すからこそ、煙と珈琲がよりいっそう魅力的になるのだ。これを日曜日の昼間にやっていたら逆に気が滅入る。普段から、私は早起きを心がけていた。いくら夜眠れなくてもだ。それは、この幸福な時間を味わうため。他にももうひとつ理由があるが。
朝に食欲というものを持ってくることができない私は、マグカップ三杯の珈琲だけで朝ごはんを済ませる。最後の一杯だけ、牛乳と砂糖をいれる。それから歯を磨き直して、シャワーを浴びて、ショートヘアーにいくつか生み出された寝癖を整えて、化粧をする。あまり、濃い化粧はしない。化粧水で肌を潤したあと、薄くファンデーションを塗り、薄桃色のリップをつけるだけ。眉毛は自前のものを使っている。長く続く不眠症で目の下に隈ができているが、もとより化粧乗りのよい肌のため、ファンデーションだけで隠れる。化粧を文字通りに、自分を化かすために使うことはない。社会人として最低限の見目形を保てればそれで十分だ。その方が、余計な気を使わずに済む。目立つことをしなければ、会社においての化粧などその程度でいいのだ。
化粧を済ませると、特徴のないブラウスのボタンを留めて、キャメルカラーのスカートを履き、カーディガンを羽織る。まだ春の優しい風が吹く季節。気温に合わせて調整のできる簡単なオフィスカジュアルをいつものように身に纏い、黒のパンプスを履いて家を出た。
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