いちわ

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いちわ

 このところ町では、まことしやかにささやかれているうわさがあった。  それは、すご腕の運び屋の話。  なんでも、とある商家のお嬢さまが恋をした。相手はどこの誰とも知れぬ、行きずりの男。あのお方に文を送りたいと思っても、ひとりでこっそり出かけた先で見初めたものだから、頼む相手も宛てもない。そこで出てくるのが運び屋だ。  うわさに聞いた運び屋ならば、と手紙をしたためたお嬢さま。そいつに手紙を託せば、あらふしぎ。渡した手紙は相手も気づかぬうちにその懐へ、飛び込んでいる。  あるいはこうだ。  町で働くある男は、遠い故郷に家族を置いて出稼ぎに来ていた。溜まった金を家族に送っては会いたい思いを何年も我慢していた男だが、ある年、お宮のそばを通ったときにふと思い出した。  そうだ、今年はむすめの七つのお祝いだ。きれいな着物までは無理だけれど、せめて簪のひとつも贈ってやろう。そう思って家族に送るのとは別に金を貯めて、ようやくむすめの気に入りそうな簪を見つけたのはもう年の暮れも間近に迫った日のことだった。  遠い故郷に便りが届くころには、年が明けているだろう。雪が降ってしまえば、春まで届かないかもしれない。それでもどうにか届けたいと、うわさの運び屋に託したなら驚きだ。  むすめの笑顔を思って布団に入り、目覚めた男の枕元にはむすめからの手紙があった。寺で習った文字をいっしょうけんめい綴り、簪がうれしかったこと、お父ちゃんに会いたいことが記されている。  男は手紙を抱きしめて泣いた。あんまりにも早いから偽物だろうか、と思いもしたけれど、手紙には故郷でつくられる干し柿が添えられていた。かじると、確かに故郷の味がしたんだと。  さてこのうわさ、驚くところはこれだけじゃない。  なんとそれらの依頼は、ほんの駄賃程度の額で引き受けられたというのだから、これこそまさに驚きどころ。  駄賃程度の金をもらい、音もなく風のように速く依頼をこなす。おかげでその運び屋、お駄賃忍者って呼ばれてるといううわさだ。  うわさと言えば、もうひとつある。  町はずれの竹やぶのなかには、とびきりうまい団子をだす茶屋があるらしい。けれどその店にたどり着けるのは、心のやさしいひとばかり。  確かにこの鳴尾の町はずれには竹林があるが、そんな団子屋の所在はだれに聞いてもわからない。数多くある根も葉もないうわさのひとつだと、みんな笑う程度のものだ。  すくなくとも、いままさにその茶屋の表に置かれた縁台に腰かけたひとりの男は、うわさに過ぎないと信じていた。 「あら、弥太郎さん。戻ってたの」  小柄なその男が背中の大きな行李を重そうにおろし、どさりと足元に置いたところへ、若いむすめが早足で出迎えた。  茶屋から出てきたむすめは、年のころは十六、七だろうか。つぶし島田に蒲公英色の鹿の子を結って、金茶に赤の格子が入った着物と前掛けをつけたむすめが、なんとも愛嬌のある丸顔で弥太郎に笑いかけた。 「ああ、ついさっきね。まだ昼飯も食べてないんだよ。ってことでおみよちゃん、さっそくだが「醤油団子ひと皿に、餡団子ひと皿」でしょ?」  愛らしいむすめの笑顔に目もくれず、懐から銭を出して団子の注文をする弥太郎に、おみよが声をそろえて言う。  弥太郎の手からおみよの手へ、受け渡された銭がちゃらりと音を立てた。  ぎょろりとした目でまばたきをした弥太郎を見て、楽しげに笑ったおみよはさらに続ける。 「それから、食べてるあいだに追加の団子もひと皿ずつ、焼いておくんでしょ。わかってますよ。いつものことだもの」  ころころ笑いながら団子を焼きに店へ戻っていくおみよを見送って、弥太郎はこきりと首を鳴らした。動きに合わせて結わないままにした黒髪がゆらりと揺れた。 「へへ、なんだかおいら、常連客みてえだな。そうかい、覚えられるほど通ってたっけね」  つぶやきながら弥太郎は、片ひざにあげた足の脚絆のひもを意味もなくほどいてはまた結ぶ。白目ばかりが目立つ大きな目を細め、やや大きすぎるきらいのあるくちをにいっと横に広げてにまにまと笑っている。  ざあんと風に鳴く竹の葉を眺めてしばらくほほをゆるめていた弥太郎だったが、はた、と手を止めてあたりをみまわした。  だんごの形を白く染め抜いた暖簾がかかる家屋は、どこにでもあるこじんまりとした木造の平屋。屋根には木の皮が葺かれて、ところどころにかたまった苔が建物の古さを感じさせている。  団子屋を囲むように生えた竹林は、陽射しをすかして鮮やかな緑色にかがやいている。吹き抜ける風が竹の葉を揺らす音と団子をあぶる炭がはぜる音さえ聞こえるほど、あたりはおだやかな静けさに包まれていて……。 「……だれもいねえじゃねえか」  弥太郎がつぶやくと、おみよが店のなかで「なにか言った?」と聞き返す。ちょうど団子も焼けたようで、皿を手にして外に出てきた。   「弥太郎さん、どうしたの。お団子、焼けたわよ」  縁台に腰かけたままうなだれている弥太郎に、おみよは首をかしげながら皿を差し出す。ほこほこと湯気をたてる団子からはぷん、と醤油の焦げた香ばしい香りがただよって、その芳香はうなだれた弥太郎の鼻にも届いたのだろう。弥太郎がゆるゆると顔をあげた。 「おみよちゃんがおいらの注文を覚えててくれたから、常連みたいでうれしいねえ、と思ったんだけどよぉ」  いくぶん肩を落としながらも、皿を受け取った弥太郎はさっそく団子に手を伸ばす。まずは醤油団子から、というのが弥太郎のなかでの決まりだった。  ぱくり、食いついて串から団子をひとつ外し、口を閉じてゆっくりと味わう。まず感じるのは醤油の香ばしさ。鼻を抜ける薫香に思わず目を閉じれば、舌にほど良いしょっぱさが広がって長旅で疲れた体に染みていく。熱い団子はむちむちと心地よい食感を与えながら、噛むほどに米の甘味を舌に落として醤油の塩気とまじりあい、口の中から幸せにしてくれる。飲み込むのが惜しいほどだ。  ひと粒の団子をじっくりと味わってから、弥太郎はようやく目を開いた。  すぐそばにはおみよが皿を持ってきたときのまま立って、弥太郎の顔をのぞきこんでいる。目が合うと小首をかしげるのは、弥太郎がうなだれていた理由を聞くまでここにいるつもりだ、ということだろう。 「……常連もなにも、この店」  おみよのすこし垂れた目に見つめられながら、弥太郎は気まずい心持ちで団子の串をつまみ指先でもてあそぶ。 「おいら以外の客なんていねえじゃねえか……」  言って、弥太郎が見回した店の前には、無人の縁台がちらりほらりと並ぶばかり。当然、店のなかにも客の姿などない。  これはなにも、今日だけのことではない。それこそ注文の内容を覚えられる程度には通ったはずだが、その日々のなかで自分以外の客に会ったのは、数えるほどでしかなかった。  それなのに、常連のようだと喜んでしまったことが気まずくて、客の少なさを指摘したことが気まずくて、弥太郎は視線を泳がせるとごまかすように団子をもうひとつ、口に運ぶ。    そんなときに限って、ざんざん鳴っていた竹がふいに鳴りやんで、その場に気まずい沈黙が落ちる。いよいよ居心地が悪くなった弥太郎がもそもそと団子を噛んでいると、どこかで鴉がカァ、と鳴いた。 「ふっ」  気まずさに顔をあげられないでいた弥太郎の頭のうえで、不意に笑いがもれた。なんだ、と顔をあげた弥太郎の前で、おみよが声をあげて笑いだす。 「ふふふ、ふふっ」  袖で口元を隠したむすめは、楽しげに肩をふるわせている。戸惑う弥太郎をよそにおみよはひとりで笑っている。ひとしきり笑ったむすめは、ほほをゆるませたままにこにこと言う。 「そんなこと気にしなくていいのよ、弥太郎さん」 「そんなこと、って……」  客の有る無しは店にとって大事のはずだが、おみよは明るく笑い飛ばす。 「うちはお金儲けのためにやってるお店じゃないの。おいしいお団子を食べてほしいから、お店をやってるのよ」 「へぇ? そりゃあ、また……」  酔狂だ、奇特だというのはどうにも違うように思えて、弥太郎はくちごもる。ではなんと評したものか、と考えながら無意識に団子にかじりつき、ああ、と声をあげた。 「小難しいこたぁ、どうだっていいや。おいらはここの店の団子が好き。それでいいやな」 「そうそう、そのとおりですよ」  思考を投げ出した弥太郎の横で、おみよは満足そうにうなずいた。  折良く竹林を通った風がふたりのあいだを吹き抜ける。それで、なんとなく気まずかった空気はきれいに消えた。  ころころと笑うおみよの声を聞きながら団子をぱくついていた弥太郎の耳に、カーァ、カーァと烏の鳴き声が届く。  団子を食べてゆるんでいた顔を寸の間、引き締めた弥太郎は、すぐに元どおりの気の抜けた顔になると、皿のうえの団子をひょいひょいとくちに放り込む。くちの中身をむぐむぐと噛みしめ、おみよがおまけで出してくれた湯飲みの白湯をあおると、立ち上がった。 「はあ、うまかった。ごちそうさま」 「あら、もうお帰りですか」  脚絆の紐をきっちり結びなおすと、早くも行李を背負いなおして弥太郎が歩き出す。 「うん、本当はもう三皿くらいおかわりしたいとこだけど、そうも言ってられなくてね。できることなら、仕事なんざしねえでおみよちゃんの団子食べて暮らしたいもんだねえ」 「ふふふ。弥太郎さんなら、うちはいつでも大歓迎ですよ」  にこにこ笑うおみよのことばをお世辞ととって、弥太郎は肩越しに振り返って笑う。 「ははっ。そいつぁうれしいや。じゃあ、また団子食いにこられるよう、せいぜい頑張って働いてきますかね」 「はい、いってらっしゃい」 「おう、いってきます」  笑顔を交わして、弥太郎は竹林のなかへと消えていく。大きな行李が動いているようなその後ろ姿を見送っているおみよに、ざざんと竹の葉を揺らした風が吹く。  ほつれた髪を片手でおさえながら、もう見えなくなった弥太郎の背中を見つめておみよがつぶやく。 「あたしは、本気なのに」  ちいさなつぶやきは、風にかきけされて弥太郎へは届かなかった。
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