にわ

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にわ

 見送るおみよの視線を行李越しに背中で感じながら、弥太郎は竹の林を足早に進む。  そんな弥太郎がふと歩調をゆるめたのは、ちょうど竹林の半ばまで来たところだった。おみよの姿は曲がりくねった道の向こうに隠れて、すでに見えない。けれど、弥太郎はどこからか視線を感じて立ち止まる。  警戒しているとは悟らせないよう、近くの竹の根元に生える花を眺めている風を装い、あたりをうかがう。 「…………」  気配は感じ取っていた。だが、その出どころが判然としない。そして気配を発しているものが持つはずの息づかいが、弥太郎には聞き取れなかった。  がさり。不意にはっきりと音がして、遅れをとったか、と身を硬くした弥太郎だったが、音の正体を目にして力を抜いた。 「なんだ、お前さんだったかい」  ゆるりと口のはしを持ち上げた弥太郎が、背中の行李をかたりと鳴らして地にひざをつく。すると、弥太郎の視線のさきにある一本の竹に隠れていたちいさな影が、明るい日の光のしたに転がり出てきた。  四本の短い足をせっせと動かし、弥太郎めがけて駆けてきたのは子狸だ。やわらかい毛玉のような体に赤い袖なしの羽織を身につけて、丸い顔と同様、愛嬌のある丸い目をした子狸が後ろ足で立ち上がり、弥太郎のひざにあごを乗せる。  弥太郎は子狸にされるがまま、その様子を微笑ましげに見るばかり。  一方、子狸は宙に浮いた両前足を精一杯ばたつかせて、きゅいきゅいと鳴いてみせる。  その姿はまるで、抱っこをせがむ幼な子のよう。 「また抱っこか? しようのないやつだなあ」  そう言いながら弥太郎は、いそいそと背負っていた行李を道ばたに下ろして子狸の脇に両手を差し入れた。  ひょいと軽く持ち上げられた子狸は、暴れるどころか嬉しげに尾をはためかせ、されるがまま弥太郎の肩へと乗せられる。子狸が己の肩にしがみついたのを確かめた弥太郎は、ゆっくり動いてその場にあぐらをかいて座った。 「落ちるなよ」 「きゅふん」  弥太郎の声かけへの返事のつもりか、ひと声鳴いた子狸は背中に回された弥太郎の手のひらにちいさな足をふんばり、立った。そして、自由な両手を持ち上げて、弥太郎の肩めがけて振り下ろす。  ぽふ、ぽふ、ぽふ。  背中におぶさった子狸が、弥太郎の肩を叩いてくる。当人は肩たたきのつもりなのだろう、せっせせっせと弥太郎の肩を叩いている。しょうじきな話、肉球のついたちいさな前足で叩かれたところで、小鳥が止まった程度の軽い衝撃しか感じない。痛くもなく、凝りに効くわけでもない。これならば、一刻叩かれるよりも弥太郎の行李に入っている貼り薬のほうがよほど効果があるだろう。  けれど、弥太郎は文句を言うでもなく子狸のするがままに任せて、竹の葉越しの陽射しを浴びてぬくぬくと座っている。 「きゅうう?」 「ああ、気持ちいいなあ。うまいぞ」  ときおり問いかけるように鳴く子狸に返事をしてやるうち、弥太郎はついうとうとしはじめた。  そこへ。 「カーァ、アーオゥ」  やかましい鴉の鳴き声が降ってきて、弥太郎がぱちりと目を開く。 「おお、危ない。寝るところだった」  ぱちぱちとまばたきを繰り返しながら驚いたように言う弥太郎の様子を見てか、子狸がうるさい鴉のいる空を丸い目でじっと見て、尻尾を膨らませた。どう見てもぼんやり空を見上げたようにしか見えないが、おそらく子狸はにらんでいるつもりなのだろう。 「きゅうう! きゅううう!」  弥太郎に負ぶわれたまま、子狸は空へ向かって抗議するかのように鳴く。そのさまがあまりにもかわいいものだから、弥太郎は手のうえに乗せた子狸を落とさないよう、胸の前に持ってきてあぐらをかいた足の間に座らせた。 「良い、良い。おいら、そろそろ行かなきゃいけねえんだ。お前さんのおかげで気持ちよくなった。いつもありがとうよ」  わしわしと頭を撫でる弥太郎の手に、子狸はうれしそうに頭をすりつける。そして、はじめに姿を見せたときのようにとととっ、と竹の影に走り込むと、ちょろりと顔をのぞかせて弥太郎を見る。 「ああ、また来るよ。お前さん、猟師に気を付けて遊びなよ。ほら、もう行け」  弥太郎がうながせば、子狸はまるでそのことばがわかったかのように尻尾をほわりと翻して、姿を消した。  茶色い毛並みを見失うのと同時、気配も途切れて弥太郎は首をかしげる。団子屋に来るたびあの子狸と顔を合わせているが、いまだその気配を追い続けることができないでいる。いつも気づけばそばに来ていて、そして見失う。どこから来てどこへ去っていくのか、わからないままだ。 「ま、いいさな。相手は子狸だ。遅れをとったところで、押し付けられんのは肉球だけだ」  ひとり笑った弥太郎は、よっこらせと立ち上がると股引についた竹の落ち葉を払った。行李を背負うと、ふたたび道を歩き出した。  ざんざざざ。ざあん、ざんざん。  風が吹き抜ける音を楽しみながら竹林を抜けたところで、弥太郎はふと振り向いた。  歩いてきた道は、陽光を透かして輝かんばかりの竹の葉で満たされ、空間すべてが淡い光をまとっているようだった。光に包まれた竹林を通る道はゆるく曲がり、向こうを見通すことはできない。けれど、あたたかな陽射しでほこほことやわらかな土が香る、見るからに気持ちの良い場所だ。  景色は良いし行き道も美しい。そのうえ団子はうまいのに。 「ほんと、なんでこんなにお客がいないのかねえ」  はて、と首をかしげた弥太郎が一面の竹落ち葉にひらり、とまた一枚が舞い降りたのを見るともなく見ていると。  ばさっ、ばさ。  風をたたくような音がして、黒い影が弥太郎めがけて降りてくる。影は黒い翼をはためかせて、弥太郎の肩にばさりと止まったのは、一羽の鴉。 「カーァ、オーゥ。アーオゥ」  鴉は弥太郎に訴えかけるかのように鳴いて、弥太郎の前髪を引っ張る。 「いたた。まったく、もうちっと休ませてくれたっていいじゃねえか」 「アーオゥ! アーオゥ!」  弥太郎が不貞腐れたようにつぶやけば、鴉はいっそう強く髪を引く。 「あたたたた! 抜けちまう、禿げちまう! わかったよ、急ぐよ。わかりましたってば!」  前髪を押さえて痛がる弥太郎に、鴉はじっとりとした視線を向けた。そして、ばさりと肩から飛び立つ。  青い空にひらりと舞い上がる黒い影を見やって、弥太郎はこっそりため息をついた。 「まったく、ひとつ仕事が終わったと思えばまた仕事。いやんなるねえ。日がな一日のんびりしながら団子を食いたいだけ食って、そのまま昼寝なんてしてみたいもんだねえ」  弥太郎はだれにともなくつぶやいてから、頭をふる。 「ま、高望みしだしたらきりがない、ってね。いっちょ、お仕事、がんばりますかあ」  のんびりとぼやいた弥太郎は、背中の行李をしっかり担ぎ直すと、音もなく駆け出した。  目指すは先に飛んで行った鴉の黒い影。濡れ羽色の髪を翻して風のように駆ける弥太郎が通ったあとには、草履のあとのひとつも残ってはいなかった。
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