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ごわ
竹の葉を散らして飛び出たのは、ひとりの男。
黒の上衣に同じく墨色の裁着袴(たっつけばかま)を身につけて、長い髪を首のうしろでひとつに縛った青年だ。
飛び出た勢いのまま弥太郎たちのほうへ駆けてきた青年は、走りながらふところに差し入れていた手をするりと抜いた。
たんっ、たんっ、たたんっ!
その手から放たれた手裏剣が地に刺さったときには、すでに弥太郎たちの姿はそこにない。
「わっ、わわ!?」
「すまんね、くち開けねえほうがいいぜ」
おみよは風を感じて瞬きをし、自分が団子屋の屋根にいることに気がついて声をあげた。いつの間にやら、弥太郎の腕に座らされている。
おみよがなにかを思う間もなく、高く跳んだ黒衣の青年が刀を振りおろすのが見えた。かと思えば、また景色が変わる。
屋根から地面へ、地面から宙へ、宙からふたたび屋根へと飛び移り、弥太郎はおみよを抱えたまま青年の繰り出す手裏剣、苦無や刀をひらりひらりと避けていく。
目まぐるしく変わる視界に着いていけないおみよは、弥太郎に言われたとおりただただくちを噤んでおとなしくすることしかできない。
そして、何度目かの跳躍ののち、弥太郎が降り立ったのは青年の後ろ。
無防備な背中に黒い長髪がひるがえり、青年が振り返ろうとした、そのとき。
「はい、おいらの勝ぁち」
いつもの調子で言った弥太郎の手が、青年の背中に突きつけられていた。その手には、青年と同じく苦無が握られている。
心臓の真後ろに刃物を突きつきられた青年は、身動きできずに固まっていた。
「もう攻撃してこねぇな? いいな? おいら手ぇどけるけど、攻撃してきたら容赦しねぇよ」
「…………」
弥太郎の宣告に、青年は応えなかった。けれど、弥太郎がゆっくりと武器を下ろしても青年は動かない。
おみよが弥太郎の腕から下ろしてもらって、弥太郎の背中ごしに覗き見たときにも、青年は動いていなかった。
いや、身動きはしていないが、体がかすかに震えている。握り締められた拳も、しなやかながらしっかりと筋肉のついた肩も、ちいさく震えている。
「おみよちゃん、おいらから離れときな」
「え、は、はい」
ひたと前を見据えたままの弥太郎にささやかれて、おみよがそろりそろりと弥太郎から距離を取ったとき。
ぶるぷると震えていた青年がくるりと体を反転させて、弥太郎に言い放った。
「弥太! ようやく見つけたぞ!」
「……おうおう、見つかっちまったなあ」
名を呼ばれ、弥太郎はぼりぼりと頭をかきながら返事をする。武器を介さないふたりの間には、初めて会ったとは思えない空気がただよっていた。
きょとりと目を瞬いたのはおみよだ。
「おふたり、お知り合いなんですか?」
「あー、まあ、ちょっとね」
「ああ! 乳兄弟だ」
当然のように湧いて出た質問に対するふたりの答えは、ずいぶんと差異があった。
そして、互いの回答にも思うところがあるのだろう。
黒衣の青年は物言いたげに弥太郎を見ているが、当の弥太郎は面倒くさげに明後日の方向に視線をやっている。
「弥太。お前、里に帰って来い」
不意に、青年が投げたことばに弥太郎の眉がぴくりと動く。
「里の連中にはもう何も言わせん。父上と母上も待っている。里を抜けた咎めもないと、約束も取り付けてきた。だから、弥太。おれといっしょに忍び働を……」
「帰らねえよ」
青年のことばをさえぎって、弥太郎がぴしゃりと言った。聞いたこともない冷たい声に、そばで立っているだけのおみよがびくりと肩を震わせる。
「弥太……」
「なあ、限(げん)」
再度、話しかけようとした青年、限をさえぎって弥太郎がくちを開く。
「おいらはさ、お前の親父さまとお袋さまには、感謝してんだ。だから、この年まであの里に居た。仕事だってこなした。……でもよお、もう無理だ」
弥太郎は黒い目を限に向けてぽつりぽつりと話す。
「おいら、嫌なんだ。気味悪がられながら里で暮らすのが、辛いんだ。洗っても洗っても落ちない血の匂いが、嫌なんだ。どうせひとりぼっちなら、誰かを殺してまでそこに居たくないんだ……」
弥太郎はたしかに限のほうを向いて話している。けれど、その目には何も映っていない。ただ、真っ黒いひとみが硝子玉のようにあるだけだ。
いよいよかけることばも浮かばないのか、黙り込んでしまった限を置いて、弥太郎はおみよに向き直る。
「おみよちゃん」
ちいさく呼ばれた名前におみよはひとつ瞬きをした。
弥太郎のはじめて見せる弱々しい表情に、戸惑いつつも笑顔を返す。
「すまんねえ、騒いじまって。団子、包んでもらってもいいかい?」
「あ、はい。お待ちくださいね」
ぱたぱたと駆けて戻った店のなかでは、ちょうど良い具合に団子が焼けていた。
筍の皮に乗せて手早く包むと、おみよは弥太郎のもとへ小走りに向かう。
「お前はもう戻ってくる気は」
「しつこいぞ、限。おいらはうまいもん食って、のんびりして暮らしたいんだよ。親父さまも許してくれたんだ」
なおも言いすがる限に、弥太郎はすげない態度だ。
けれど、おみよに気がつくといつものゆるい笑顔を浮かべて出迎える。
「ああ、ありがとう」
言いながら包みを受け取った弥太郎は、空になったおみよの手のうえに銭を置いた。
ちゃり、と手のひらでちいさく鳴った銭は、受け取った団子ひと皿よりも、いくぶん多い。
「あの、弥太郎さん。お代はさっきの陰陽師さまから頂いてますし、どっちにしろこれじゃあもらいすぎになってしまいますよ」
「いいんだ」
返そうとするおみよの手をさえぎって、包みを懐に入れた弥太郎はおみよから一歩離れる。
「おみよちゃん、うまい団子をありがとう。殿坊のこと力になれなくて悪いけど、気をつけてな」
へらりと笑った弥太郎は縁台のそばに置いてあった行李を背負うと、立ち尽くす限の横をすり抜けて竹林の道へと向かっていく。
さり、さりと地面の落ち葉が音を立てるなか、音もなく遠ざかっていく弥太郎におみよは呼びかけた。
「弥太郎さん!」
ひたり、と足を止めた弥太郎だが、振り向きはしない。けれどおみよは構わず続けた。
「ねえ、弥太郎さん。お仕事が終わったら、また来てくれるのよね? いまのじゃ、まるで最期のあいさつだわ。きっとまた来るって、約束してくれないと嫌よ」
「…………」
怒ったように言うおみよの声は聞こえているだろうに、弥太郎は振り向かず、なにも答えない。
すこしの間、返事を待っていたおみよだったが、さあっと吹き抜ける風のほかに動くものがないと見ると、弥太郎に駆け寄った。そして弥太郎の着物の袖をぎゅうとつかむと、ほほをぷくりと膨らせる。
「もう来ないっていうなら、わけを話してもらいますからね! 話すまで、帰さないんだから!」
「おみよちゃん……」
おっとりした眉をめいっぱいしかめさせて言うおみよに、弥太郎は困ったようにその名を呼んだ。
それでもおみよの態度が変わらないのを見てとると、弥太郎はため息をひとつこぼし、おみよの手をそっと袖から外した。
続いて、背負ったばかりの行李を下ろして足元に置く。
それを見てぎょっと目を剥いたのは、だまって成り行きを見ていた限だ。
「お、おい、弥太! まさか見せるのか?」
「……ああ。納得してもらうには、一番いいだろ」
慌てる限に対して、弥太郎はどこか諦めたような笑顔を見せた。
その顔を目にした限は、ぎゅっと眉をしかめる。
「不用意に見せるものではないと、言われているだろう。お前が困ることになるのだぞ、早まるな」
「困らせてるのは誰だ。ここはせっかくおいらが見つけた心安らげる場所だったのに。お前が騒ぎを起こすから、居られなくなるんじゃねえか。もう、おいらのことは放っといてくれよ……!」
諌めるような限のことばに、弥太郎は語気を強めた。
最期に叫ぶように言ったのと同時に、弥太郎の背中に黒いものが広かった。
「え……」
おみよのくちから驚きがこぼれ落ち、見開かれたひとみのなかの景色に黒い羽が舞う。
濡れ羽色の羽が、弥太郎の背中から生えていた。
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