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ドキドキオフィスにふたりきり。
今日もぼんやりと安良沢は窓の外を眺めている。むしろ、窓側を向いて仕事をしていた方が良いのではないかと思えるほどに。
ただ、人が近づくと和やかに応対をし、求められれば的確な指示を与え、自分は積まれた書類に目を通す。
誰が見ても明らかなのは、その安良沢の存在無くして、もうこの課は円滑には回らないのだということだった。
部長や課長ですら手を焼く問題職員を宥め、手綱を握り、せめて少しでも同じ方向を向かせる。そんな人望が安良沢にはある。
「…………」
すごいなあ、と篠原は思う。
「あんなひとがこんな課の、係長止まりでいいんだろうか……」
安良沢の姿を視界の傍らに捉えながら、コーヒーを呷る。
それから篠原はカレンダーを見やる。二次調査の成果物提出締切が明日に迫っていることを改めて確認した。
「…………はあ」
今日も残業かなあ、と背中を捻る。ぱきぱきと背骨が鳴った。
お先に失礼します、と先輩や同僚、後輩が次々と帰り支度を済ませて帰途に就く。まるで定められたかのように、小さなオフィスの片隅に篠原と安良沢だけが残された。
「…………」
またハマってしまった。果たして出力されたこのデータは、集計表は正しいのだろうか。その担保はどうするのか。どうすれば。
「篠原君?」
「?」
傍らには安良沢が立っていた。随分な顔をしてるね、と笑った。
「今週はあれかい、月次の二次調査の集計かな」
「あっ、そうです。先月のデータと随分違っているので、これでいいのかなあって考えてしまって……」
「あ、そうなんだね。ふうん……」
安良沢はまたあの日のように、パソコンの画面と机に広げた資料をちらりと見やる。握り拳を口に当て、ううん、と唸ってから。
「じゃあ、一緒に考えよう。どの部分がおかしいと思ったんだい?」
そして先週同様、スラックスの右ポケットから財布を取り出して。
「篠原君、コーヒー、買ってきてくれないかな。前と同じやつ」
お釣りは要らないよ。
***
「ううん、なかなかにこれは不思議だね」
「そうですよね。特段何かデータの作りがおかしいとか、そういうのでは無いようですし……一応ツールの仕様は確認しました」
ふたり、画面を前にして考え込む。普段通りであれば、先月の同時期に納品した成果物とほぼ同じものが出来上がるはず。しかし今回作成した帳票には、複数箇所に想定外の値が散見されていて。
「こういうのはね、大元のデータがおかしいことが多いんだよね」
ちょっとマウス貸してね、と安良沢は手を伸ばす。
「あっ……」
重なる篠原の手と安良沢の手。ふわりとした毛が、篠原の甲に触れる。それから一瞬の後、ぱっと離れて。肉球は柔らかかった。
「ひゃあっ! あ、ご、ごめん!」
随分なリアクションであるなと篠原は思った。それと同時に。
何それかわいい、と単純に感じてしまったことも事実ではあった。
まるまるとした横顔。ちょんと伸び出る髭。
考え込む仕草。息をする際に僅かに膨れる鼻。
ぱちぱちとするまばたき。独特の、獣のにおい。
ワイシャツの隙間から覗く、豊かな胸毛。触れてみたい。
全部が全部、うっすらと、魅力的に思えて。
紡ぎ出された感情は折り重なる。
まるでひとつの反物を織り出すかのように。
そしてやがて、感情が、何かへと変わりゆくのが、わかった。
「…………」
「あ、これかもね。ほら見て。大元のデータを集計データに変換するこの部分。ちょっと文字の置換指定が間違って――」
篠原君?
「えっ、あ……」
身体ひとつ分。極々僅かな距離。その先で、パソコンの画面を指さしつつ説明をするその言葉は、ほとんど篠原の耳には入らず。
画面のことより仕事のことより、傍らに居るホンドタヌキのことを考えていた。今日は僅かに甘い香りがする。香水なんて無縁そうなのに、なんて。そんな事を考えていて上の空だった。
「あ、すみません……ぼんやりしていて……」
「もう。残業中とはいえ、ちょっとは集中しないと」
安良沢はぷくりと頬を膨らませる。その様子は実に愛らしく。
「…………」
その何気ない仕草が。何気ない雰囲気が。
すごく。すごく。
どう表せばよいのだろうか。上手く言葉に出来ない。
きっと、おそらく、その気持ちは――――。
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