もしかして、俺、係長のこと。

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もしかして、俺、係長のこと。

 駅へと続く蒸し暑い夜道を、今日もふたり並んで歩く。歩き進める度に、スラックスから伸びるふさっとした尾がゆらゆら揺れる。 「んんんっ! 今日も働いたね!」  伸びをしながら安良沢は首を捻ると、ぽきぽきと音がした。  長袖のワイシャツの袖を、二の腕まで捲って。ふわふわとした毛並みに月の光が馴染み、随分と艶やかな光沢が浮かんでいる。篠原の歩幅に合わせて、安良沢は少しだけ早足。 「すみません……今週も付き合わせてしまって」 「いいんだよ、そういうのはナシナシ。部下の面倒は、上司が見ないといけないからね」  ふふ、と安良沢は笑った。その笑顔がいたく、篠原には眩しい。  安良沢は篠原よりも頭ひとつ分と少し、背が低い。もちろん種族故の個体差もあるであろう。ただその差が、篠原にとっては随分と好ましく、愛しいものであった。  もしも抱き留めるとしたならば、自分の胸の真ん中あたりに安良沢のくちびるが触れるであろう。  きっと、くちづけも、し易いであろう。そして――――。 「篠原君?」 「えっ、あ――――」  ぼんやりとしていた。夢想に近かった。安良沢のことを考えていたが、そういえば、篠原は安良沢のことをほとんど何も知らない。  それなりの年齢で、すこぶる仕事が出来るのに階級は係長止まり。随分な人格者で、頼り甲斐もあって――――。  しかしながら、どんな人物なのか、家族構成やら何処に居住しているのやら、そういった安良沢の個人的なことについては何も知らない。話をする機会も無い。もっと、もっと近づくことが出来ればいいのに、と近頃、篠原は切に思うようになっていた。 「篠原君、どうしたんだい最近。仕事、大変かい? 何かあったなら相談とかしてくれて構わないんだからね」 「いえ、別にそういうわけでは……」 「そうか、ならいいんだけど。何かあったらすぐに言ってね」  安良沢は微笑んでから、駅だね、と言った。 「あ、本当ですね」  係長と一緒に歩いてくると、駅まであっという間で。 「普段、誰かとこうして歩くことなんて無いので」  何だか新鮮で。 「そうかい? 自分もまあそんな感じかなあ。歩き通勤だけど」  誰かと一緒に歩くのって、いいよね。 「係長……」 「あ、そろそろ電車来ちゃうね。気をつけて帰って。あっそうそう」  安良沢はスラックスの右ポケットから財布を取り出して。 「仕事、お疲れ様。暑いし、これで飲みモンでも買いなよ」  ちゃり、と手渡されたのは硬貨二枚。 「お釣り要らないから! 奢り! じゃあね!」  くるりと身を翻して、安良沢は舗装されたロータリーを小走りで。 「…………係長」  徐々に小さくなる背中を見つめながら。  篠原は、手渡された硬貨を握って。 「………………」  ――ああ、なるほど。  ――そんなことは無いと、有り得ないと、思っていたはずなのに。  ――――きっと、きっと。  *** 「…………」  自室。眺めるのは、白い天井。見慣れたそれも、今日は違う。  薄っすら浮かぶ、安良沢の面影。皆に向ける、穏やかな笑顔。  もっと、自分だけを見てほしいだなんて。そんな大それたことを。 「…………」  幸か不幸か、来週は三次調査の提出締切がある。  また、安良沢との時間が持てるのかも。  デッドラインに追われながらの、ふたりだけの、甘い時間を。 「係長……」  少し低めに設定した冷房の微風が、肌を撫でる。  唾を飲み込んで。篠原はゆっくりと、トランクスを脱ぎ捨てた。 「んんっ……」  下半身に熱が集まる。右手で、勃った竿を握って。 「んっ……、あ……」  係長、という単語が無意識のうちにこぼれ落ちて。  その笑顔を、その横顔を、その苦笑いした表情を。汗の混じる獣の香りを。そして……ワイシャツの下やスラックスの下に隠されたふくよかで少しだらしなさそうな、安良沢の裸体を想像して。 「あっ、ああ」  竿を包む包皮をゆっくりと、上へ下へ。その自慰は、まるで禁忌。  安良沢は毎晩、どのように過ごしているのであろう。  夜毎妻を抱き、善がらせているのか。  その逸物はどのくらいの大きさなのか。  どのような表情で、どのように喘ぐのか。  達する速さは。上擦った声の大きさは。  射精の量は。その白い精液の濃さは。  果てた後、どのような会話をするのか。  くちづけを、するのか。優しく、抱きしめるのか。  ――――愛していると、囁くのか。 「かかりちょっ……! うぐっ……!」  自分も、愛されたい。 「あっ、ああっ」  温もりを、感じたい。 「かかり、ちょっ、あ、あうっ……」  ひとつに、溶け合いたい。 「はあっ、ああ、ああっっ!」  やがて、視界がぱちんと、白く弾けて飛び散る。  先端から溢れる精液は、親指にそってぼたりと下腹部へ落ちる。  全身で酸素を求めつつ、篠原は右腕で両目を覆って。  想いは走り出した。もう止められない。吐息は、震えて。 「駄目だ……」  呟いた。深く深く、気持ちを込めて呟いた。 「俺、係長のこと……」  ――――本気、なんだ、ろうか。
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