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今日は締め切り日。
安良沢は今日も、ぼんやりと窓の外を眺めている。思い出したかのように書類の束に目を通し、右上に判を捺している。ただ。
「何か、考え事でもしてるのかなあ……」
安良沢の様子がいつもと異なる、と篠原は思った。どことなく落ち着きが無い。普段のように構えた彼ではないように見えて。
「…………」
定時になった。チャイムが響く。勿論、今日の業務が終わる気配は無い。
篠原は一度深く溜息をついてから、手にしたボールペンで集計表のチェックを始めつつ、横目でちらりと安良沢のデスクを見やる。
「えっ……?」
帰り支度を終えた安良沢が、そそくさと席を離れるのが見えた。
今日は。今日は、三次調査の締切日であるのに。
「…………」
どうしよう、と篠原は独り言ちた。その言葉には、いくつかの思いが込められている。まずは業務遂行への不安。それから、心に広がる、黒い何か。寂しさ。
「……たまたまだったんだ」
安良沢が先週も先々週も業務に付き添ってくれたのは、ただ単に、安良沢の手が空いていて、且つ、篠原が手を止めていたから、上司として手を差し伸べただけ。だから。
「…………」
勝手に期待して。勝手にがっかりして。
――なんて、身勝手なのだろう。
***
屋上から見える田舎の夏空。数多の星がきらめいて。昔に勉強してそれきりの薄らいだ知識を掘り返しながら、篠原は空を見上げた。
「夏の大三角、かあ」
あれがデネブ、その右上がベガで、右下がアルタイル。
「ベガはこと座の一等星……」
それは実に明るく、青藍の空に映える。
こと座の伝説は実に著名な悲恋。才ある音楽家であり詩人であるオルフェウスと、美しいニンフ、エウリュディケの物語。
最愛の妻エウリュディケを亡くしたオルフェウスの時間は止まり、失意のまま冥府を彷徨う。彼は、妻を生き返らせるという叶うはずだった願いを不意にし、そして再度失う。そして最後、その身を裂かれ、手にしていた竪琴は空へと還り、こと座となった。
確かそのような神話であったと記憶している。
オルフェウスはその綴りから、オルフェと記されることもある。
「悲恋、かあ……」
自分が抱いた想いもきっと叶わない悲恋。拒絶されて焉わる。
性別という、単純で大きな壁。どう足掻いても越えられない。
「係長……」
気持ちはただただ募りゆく。もう、一緒に仕事は出来ないのか。
残業をしている静かな時間、ただそれだけが篠原と安良沢の唯一の接点だった。だから。
「俺、係長のこと……尊敬してるし、それに」
思慕の念。それだけではなくて。
愛されたいと願ってしまった、実ることのない切なる希望。
「複雑」
んん、と背伸びをしてから。篠原はべたついた夏夜の空気を吸い込んでから、溜息を込めて深く吐き出した。
「やるかあ、仕事。今日中だし」
欠伸をひとつ。屋上を後にして、かつかつと階段を降りてゆく。
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