納品したはいいものの。

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納品したはいいものの。

「あれ……?」  誰も居ないはずの執務室から明かりが漏れている。先程、電気を消し忘れてしまったのであろうか。  不思議に思いながら扉のノブに手を掛けて。そっと開ける。 「……あれ、……係長?」  窓際の係長席。日中の就業時と同じようにちょこんと座り、安良沢はぼんやり頬杖をついていた。開いた扉に気がついたのか、耳をぴょこりと動かして。 「ん……? あ、ああ、篠原君。お疲れ様」 「あ、えっと、お疲れ様です……」  安良沢は、帰ったはずではなかったか。忘れ物でもしたのか。 「ちょっとね、用事があったんだけど片付けてきたから」  今日、三次調査の締切じゃなかったかな、って。 「係長……」 「この業務は三次調査が一番大変だからね。手伝うよ」  でも、来月からは篠原君ひとりで、一通り出来るようになってね。  近い。身体ひとつぶんしか離れぬところに、想いびとの姿がある。 「三次調査は、基本的には二次調査のデータを使うんだけどね」  ただこれまでと少し違うところがあって。 「集計項目が増えたり、月一でやることも増えたりして」  気が抜けないっていうかさ。 「いつものブツに追加で、一般公開用データも作るんだよ」 「えっ、そんなの有るんですか」 「そうなんだよ。手順書に書いてなかった? 提出し忘れたら、結構ヤバいんだよね。流石に自分だけじゃカバーしきれない」  懐かしいなあ……と、安良沢は苦笑いをしながら頭を掻いた。 「そういう時って、係長はどんな風に……」 「ああ、そうだねえ。結構、徹夜とかしたかなあ」  ***  慣れた手つきで、安良沢は、数値にチェックを入れていく。  偶に手を止め、ハンドタオルで額を拭う。暑いねえ、と笑った。 「すいません、目視のチェック、やっていただいて……」 「ああ、いいのいいの。この業務は、人手は多い方がいいからね」  それに。 「上司、だからさ。篠原君の」  手元だけを見ながら、まるで独り言のように。 「係長……」  上司。  当たり前のはずのその単語は、実に深く篠原の心に刺さる。  上司と部下。それ以上でもなければそれ以下でもなく。ただそこにあるのは仕事上の関係、それだけ。 「あ、篠原君。いつもいつもアレなんだけどさ」  安良沢はスラックスの右ポケットから財布を取り出して。 「コーヒー、買ってきてくれないかな。同じやつ」  先週とも先々週とも同じように、硬貨を三枚手渡して。  お釣りは要らないよ、と安良沢は言った。  静まり返るビルの一階に、自動販売機コーナーがある。  いつもそうするように、篠原は自販機の前に立って。 「…………」  投入口へ硬貨を滑り込ませ、緑色に輝くボタンを二回押した。がちゃんがちゃん、と続けざまに缶が落ちる音がして。 「味の好みが似てる、か……」  少しだけ、嬉しかった。  でも。それだけではなくて。もっと……。 「ふう。何とかひと段落したね。よかったよかった。納品諸々、間に合いそうで何よりだよ。データ送って終わりにしよう」 「本当に、ありがとうございました……」  慣れないデータの作成も、安良沢の助力を受けて、どうにかこうにか形になった。送信ボタンを押した瞬間、張り詰めていた緊張は解けて、随分と身体が重くなる。篠原は深く深く、息を吐いた。  安良沢はハンドタオルで額を拭う。それから眼鏡を外し、顔全体を拭う。その際にちらりと見えた、安良沢の素顔。意外と整った顔立ちであるなあ、と篠原は思ってしまった。 「係長って」  眼鏡外すと。 「結構……イケメンなんですね」  ぽろりと、思ったそのままが口からこぼれて。  篠原は、あっ、と取り繕うように視線を逸らした。 「いや、その……」 「い、い、いっ、イケメン……?」  何言ってるんだい、と安良沢はまた、ハンドタオルで額を拭った。 「…………」  恋をしている事情は抜きにしても確かに、安良沢は端正な顔立ちをしている。もう少し身体を絞れば、周囲は色めき立つであろう。ただ、篠原にとっては、そのふくよかさも魅力のひとつであったが。 「随分ギリギリになっちゃったね。急がないと終電なくなっちゃう」  ほらほら、と安良沢は篠原を急かして。  *** 「ああ…………」  最寄り駅の電光掲示板の電源は落ちていた。つまりは。 「終電……」  やってしまった、と篠原は肩を落とした。  都会から少し離れた片田舎。一夜を過ごせる場所などなく。タクシーで帰ろうにもそう言えば、随分と自宅からは距離があったように思う。財布の中身は、給料日前で心許ない。 「どうしよう……」  改札の前で立ち尽くす。駅周辺に何かあったかと思案する。確か南口に漫画喫茶があったような。この時間でもまだ、営業中であるのか。寧ろ逆に、執務室で仮眠でもしていた方が安全で快適なのではないだろうか。  幸い明日は土曜日。せめて、この晩を明かせれば。 「ううん…………」 「あ、し、篠原君?」  安良沢が声を掛けた。ただ、少しだけ気恥ずかしそうに。 「その……えっと……」  ――――うち、来る? 「……えっ?」  一瞬、何を言われたのかがわからなくなった。どういうことか。 「えっと、その……それは……」  安良沢は視線を合わせない。いたく難しい表情をしている。 「えっ、その……」 「ま、漫画喫茶よりはいいと思うし、ふ、布団もあるし……」  えっと。その。 「…………」  別に、緊張することはないのに。  別に、意識することはないのに。でも。  好きなひと、想いを寄せるひとの家。どうしよう。どう答えよう。 「その……えっと……」  係長さえ、良ければ。 「一晩、ご厄介になっても……?」  そう答えるだけで精一杯であった。何かが、心から、溢れそう。
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