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係長のカミングアウト。
駅の南口から歩いて十分程度。それなりに築年数の経った集合住宅の一室が安良沢の居宅であった。ファミリータイプの大きさであろう、随分広々としていた。
「急にお邪魔したりして、ご迷惑では……」
「あっ、いいよいいよ全然。ひとり暮らしだし」
「おひとり暮らしなんですか?」
その割には、その、大きな部屋ですけど。
「ま、まあ、うん……」
気まずそうに、安良沢は何かを含んだ表情で。
少しだけ甘い香りのする、小綺麗な部屋であった。
大型のローボードに液晶テレビ、ベージュ色のサークルラグ。深緑色のソファーに小さなダイニングテーブルセット。大きなビーズクッションも、リビングの隅に転がっている。
「くつろいでって言ってもアレだよね。スーツじゃちょっと窮屈じゃない? ちょっと待ってね。部屋着とか持ってくるから」
「大きい……」
腰回りに随分余裕がある。安良沢は申し訳無さそうに頬を掻いた。
「ごめんね、ぶかぶかだったね。篠原君、身体細いし……」
「いえ、そんな……。シャワーまでお借りしちゃってすみません」
「真夏だし、べたべたじゃ居心地が悪いしね。ああ、そうだ。篠原君はお酒飲める? ビールならあるんだけど、どうかな」
「あ、よければ頂いても、いいですか……?」
「じゃあ、ちょっと待ってね。シャワー浴びたら乾杯しようね」
そう言い残して、安良沢は浴室へと消えた。
ぶかぶかの部屋着。鼻に、袖口を押し当てて。
「係長のにおい……」
心が、満たされる。この気持ちは、明確な言葉に出来ない。
シャワーを浴びる安良沢の姿を想像する。
豊かな体毛は湯に濡れ、てらてらと光るであろう。
その短いぽちゃりとした腕で、胸を触り、腹を触り、脚を撫で、性器を洗うのであろう。
湯を浴びる温かさ。ある種の恍惚に身を委ね、至福の時間を過ごすのであろう。
そう言えば洗面所にはアロマオイルが置いてあったような。アロマバスも嗜むのか。お洒落だ。
「はいどうぞ。三次調査の納品、お疲れ様」
安良沢はダイニングテーブルの上に缶をふたつ置いた。
よいしょ、と椅子にゆっくり座り、ひとつを手に取って。
「僕、ちょっと苦目のビールが好きで。口に合えばいいんだけど」
「……僕?」
安良沢の一人称は、僕、なのか。
「え? あ、ああっ! いや、えっと、その……」
職場だとやっぱりさ、僕、とか言えないから。
「内緒だよ」
えへへ、と安良沢ははにかんで。
「……内緒……」
内緒だよ、なんてずるい。勘違いしてしまう。
「係長って……意外と」
天然なんです?
「天然? 何が?」
「なんて言いますかこう、係長って優しいし、何だかこう」
勘違いするひと、居るかもしれませんよ。
「勘違い? 何を?」
「例えば……」
例えば。その先は。言い出せない。
安良沢はビールを呷ってから、缶を置き、頬杖をついた。
「……篠原君って意外とさ」
周りを見てるんだね。だって。
「その……」
みんなのことも僕のこともきっと、いろいろと見てるんでしょ。
「係長……」
「篠原君って、その、えっと……」
プライベートなこととか、聞いちゃっていい?
「彼女とか、居るの?」
「えっ? 彼女? えっと……まあ、学生時代は。……でも」
今は。
タンクトップの端からぽっこりと腹がはみ出していて。
ステテコ姿で随分とリラックスしていて。
暑いね、なんて言いながら団扇を仰ぐ。
そんな目の前の貴方のことが好きですなんて。
「そうなんだ。篠原君、かっこいいから意外だな」
安良沢はテーブルに頬杖をついて。
「……こんなでかい部屋にひとり暮らしなのはまあ、理由があって」
妻がさ、居たんだけどね。
「居た……?」
「まあ、ね。居た、が正しいかな」
……亡くなっちゃってさ。随分前。
僕が係長になったくらいの頃だったかな。
それからは何だか、時間が止まっちゃったみたいな感じ。
仕事のことと、妻のことだけを考えて生きてきたから。
そのうちの半分を失くしちゃって僕は。
「それからは昇級とかそういうの、どうでも良くなっちゃって」
形だけでも試験受けろって上司から言われたりしてたけど、正直面倒くさくて。一番輝いてて充実していたのは。係長に上がったあの頃だから。だから、僕は今のポジションに固執してる。
「気持ちは、あの頃のままなんだ」
妻と一緒に暮らしていた、あの頃のまま。
「係長は、奥さんのこと、すごく大事に……」
「まあ、そうだね。ちゃんと愛していたと思う」
でも、後ろめたくもあった。
「……後ろめたく?」
「その、僕は、その……」
安良沢は俯いて、視線を右に左に。申し訳なさそうな顔をしてそれから、意を決した表情で口を開く。
――実はね。
――その。僕。
――男のひとが、好きなんだよ。
――恋をする対象がね、男のひと。
「……えっ……?」
「だから結婚する前に、いろいろ難しいんじゃって妻にも言ったの」
でも、それでもいいよ貴方がいいのよ、って言ってもらえて。
「救われたよね。こんな自分でもいいんだって」
だから、応えたかった。妻のことは心の底から愛したつもり。
ちゃんと愛していたなって思う。けどその半面、今すごく複雑で。
「複雑……?」
「まあ、その、ね……」
篠原君。
「?」
「えっと……その……」
こんな流れで、なんなんだけどさ。
「篠原君って、その……」
安良沢は口ごもる。視線を僅かにそらす。そのまま。
――好きなひととか、いるの?
「…………」
「えっ? あ……」
この会話。この流れ。安良沢のカミングアウト。つまりは。
「なっ、あ、えっと、ご、ごめんね! なんでもない!」
手のひらをぶんぶんと振って。照れ隠しとはまた違った何か。
複雑である、と安良沢は言った。現実問題、正にその通りなのであろう。安良沢はビール缶を両手で包み、小さく呟く。
「ご、ごめんね、お、おかしいよね、気持ち悪いよね……」
その苦笑いした表情。その、嘲りと諦めの混ざった声色。
篠原はごくりと唾を飲み、喉の先まで出掛かった言葉を改めて確認する。伝えてもよいのか。
安良沢へ、この想いを伝えてもよいのか。
――もう、抑えられない。もう、躊躇っては……。
「好きなひとは、い、居るっていうか……」
――か、係長の、ことが……。
「えっ……?」
安良沢は目を、文字通り丸くして。ぱちぱちと何度かまばたきを。
それから、随分と真剣な眼差しを向けた。静かに口を開く。
「篠原君。君は何を言っているのか、わかって――」
「係長! 俺……俺、本気なんです! 係長のこと……」
諭す言葉を遮るように、篠原は言い放つ。
あの日から少しずつ重ねてきた、安良沢への想い。それが一時の甘い幻想であるのか、心の底からの言葉なのかはわからない。けれど。想いは本物。目の前の、自分よりも随分齢を重ねた上司のことがきっと、誰よりも誰よりも、愛しくてたまらない。
「…………」
気持ちは通じたのかどうかは、わからない。
ただ、安良沢は一度深く長く目を閉じて、それから、開いて。
篠原君。
…………そういうことで、いいのかい。
係長。
…………そういうことで、いいです。
篠原君。
――本気にしちゃっていいのかい。
係長。
――本気にしちゃって、いいです。
目と目が合う。漂う、そういう雰囲気。つまりは。
安良沢は椅子を引き、ゆっくりと立ち上がる。視線を、ずらす。
「篠原君、その……えっと……」
うちのベッド、そんなに大きくないんだけど。
「…………それって」
「それに、いきなりそういうの、嫌なら嫌って言ってくれても」
「……嫌じゃないです。俺、係長と、ずっと――――」
凍った時計が動き出す。もう、きっとおそらく、止まらない。
「……篠原君」
「はい」
「……その、えっと」
「…………」
「へへ、上手く言葉にできないや。でも、なんていうかこう」
皆には内緒だね、と安良沢は微笑んだ。
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