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係長の答え合わせ。
間接照明が薄っすらと室内を照らす。甘い穏やかな時間が、ゆったりゆったり過ぎていく。ふたり、身体を寄せ合って。
「……秋の昇級試験、受けようかな」
不意に安良沢は、そう呟いた。
「係長なら、すぐ偉くなれますって」
篠原は反射的に、そう答えて。
「そうかな」
「そうですよ」
「篠原君が言うなら、大丈夫そうかな。じゃあ受けよう」
……ねえ。
「何ですか?」
「キス、してもいい?」
随分唐突に話題変わったな、なんて思ってしまって。
「……駄目ですって言ったら?」
「無理やりにでも、しちゃう」
安良沢は静かに、篠原の頬にくちびるを近づけて。ちゅ、と小さな音がした。柑橘の香りと汗の香りとが混ざる。
「係長のにおい……」
安心します、と篠原は微笑んだ。つられて安良沢も目を細めて。
篠原君ってかわいいよね、なんて囁いて。安良沢はそのぽちゃりとした手で、篠原の頬を撫でた。肉球は、柔らかい。
「係長もオトナって感じで包容力があって、でも」
ベッドの上では随分違うっていうか、喘ぎ声、すごくエッチで。
「もう、そういうこと言って。駄目だよ、おじさんをからかっちゃ」
篠原君が強引で気持ちよかったから、つい、喘いじゃっただけ。
「ところで係長、質問いいですか?」
「うん? 何だい?」
部屋着を羽織ったところ。篠原は前々からの疑問を投げかけた。
「係長がコーヒーを買ってきてって小銭をくださる時に」
お釣りは要らないよって言うの。
「あれ、どうしてかなあ、ってずっと思ってたんです」
「えっ? あ、ああ、それはえっと……その……」
セコいひとだなって思われたくなかったのと、あと。
「ちょっとでも印象に残ればいいなって思って」
えへへ、ちょっと打算的。
「……係長って」
すごく、おちゃめ。
「そうかな」
「そうですよ」
篠原は笑って。それにつられて、安良沢もくちびるの端を上げた。
じゃあそろそろ寝ようかね、と照明のスイッチを切って。
セミダブルベッドにふたり、丁度良く収まっている。
「係長」
「何だい?」
「その……お願いっていうか」
係長を抱きしめて、寝てみたいなって。
「抱き枕みたいに……」
「ひとをタヌキのぬいぐるみみたいな扱いするね」
まあ実際のところタヌキだけどさ、と安良沢は笑った。
「いいよ。おいで、篠原君。……服、脱いだ方がいい?」
温かい。気持ちが溶け合うと、こんなにも温かい。
背中に回る短く太い腕の感触が、こんなにも愛しい。
「篠原君、僕はね」
安良沢はそう切り出して。
「真面目で直向きで一生懸命。そんな部下である君に興味を持って」
じいっと見ていたら、だんだん気になってきちゃって。
いつの間にか惹かれていたんだ。
「係長……」
「最近さ、結構ぼんやり外を見ていたのは」
君のことをさ、考えていたからで。
「…………」
ずるい。いきなりそんなことを言うなんて。
「一応まあ、他にもいろいろ想定とか計算とかしてて」
お釣り云々で、それとなく自分を印象付けてみたりとか。
「今日定時で一旦帰ったのは」
掃除得意じゃないから、一旦部屋を片付けるためだったり。
「それから、仕事手伝うのも、少しペースをゆっくりしてみたり」
篠原君の終電がなくなるくらいの時間まで。
「まあ、結果的にこうなったんだけど」
うちに来る?って誘ってみたりとかさ。
「……全部、想定済み、ってやつですか」
係長ってすごいひとだあ、と篠原は溜め息をついた。
「まあね。年の功ってやつさ」
でもね、と安良沢は続けて。
「君との恋は、絶対に叶わないって思っていたから」
随分な番狂わせだったよ、と。抱き寄せる力が強くなった。
「……ねえ篠原君」
「何ですか?」
「えっとね」
僕からのお願いも、聞いてもらってもいい?
「……? 何でしょう、出来ることなら……」
「えっとね」
簡単なようで難しいかも知れないけど。
「?」
「えっとね……」
――ふたりきりの時はね。
――係長じゃなくて、名前で呼んで欲しいな、って。
「…………どうしてそんなに」
出来たひとなのだろう。このタイミングで、そんな願い。
あまりにもあまりにも。
「…………そういうの、ずるくないですか?」
嫌ですなんて、言えないじゃないですか。
「ふふ。これもまあ、ちょっとは計算済みでした」
「それって、なんかこう、踊らされてるみたいで」
なんだか。
「踊る? 僕の上で? いいよ、ほらほら。上に下にって。それなら僕、いっぱいいっぱい頑張っちゃう」
「それって、笑えない親父ギャグですか?」
さっき、あれだけ善がっていたのに。それに。
「係長って、そういうセリフとは無縁の方だって思ってました」
「ふふん。まあ実際のところ、タヌキの性欲ってのは結構強いし」
若い子には、まだまだ負けないつもり。
「それに。でも」
計算なんてのは結局のところ意味が無くて。やっぱり、こう。
「現実が伴わないとダメだね。現に」
篠原君とこうしているだけで、止まってた時間が動き出してる。
「今、夏でしょ」
「えっ? あ、はい、そうですけど」
「夏の星座なんだけど、こと座、って知ってる?」
「こと座……」
そう言えば昨夜、屋上でその星座のことを考えたような。
「詩人オルフェはね、妻のエウリュディケを亡くしてしまった途端」
時間が止まったかのように、心を閉ざしてしまったんだって。
「……昨日までの僕みたいだって、ちょっと重ねちゃってた」
「係長……」
でもね。
「……僕、篠原君を見つけられたから」
時間がまた動き始めた。僕はまた、前を向けるような気がする。
こと座の悲恋の果て。
ずっと凍り付いていた時間を、新たな愛で溶かそうか。
オルフェとエウリュディケのような悲壮は、もう、止めにして。
青藍の空の端が薄っすらと白む。
夜が明ける。それはまるで、これまでずっと安良沢が閉ざしていた心の扉が、ゆっくりと開いていくかのようで。
「朝ごはん、何食べたい? パンとごはんと、どっちがいい?」
「えっと……そうですね……」
もっと。
「係長を、食べたいかなって。へへ……」
「ふううううん? 篠原君ってそういうこと言うんだ」
安良沢はふふっと笑って。篠原君ねえ、と続ける。
――今はふたりきりなんだから。
――係長じゃなくて、俊彦さん、って呼んで?
「……上目遣いは駄目でしょう」
このひとは、そういうひと。空気を読むのが大変上手。だから。
「……俊彦さんって、ずるい」
――想像していたよりもずっと、この恋はヤバいのかも知れない。
――そんな風に、思えてしまって。
――自分はこれから、どうなってしまうのだろう。
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