気になるタヌキの係長。

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気になるタヌキの係長。

「……『あらさわ』係長かあ。『やすらざわ』じゃ無いんだ」  いつもぼんやりと窓の外を眺めているのに、安良沢は随分と仕事が出来る。指示も的確で面倒見もよく、部下からは慕われ、穏やかな人柄で課長や部長からの信頼も厚い。  随分と齢を重ねているように見える。自分よりもひと回り、いやふた回りは年上なのではないだろうか。係長止まりなんて勿体ないと誰もが考えるほどに、彼はすこぶる「出来るひと」。本来ならば課長や部長となるべき器であることは疑いない。  それでも。その、ふくよかで焦げ茶の毛並み、オーバルレンズの眼鏡を掛けたホンドタヌキの係長は、頑なに自分の立ち位置を守り続けている。まるで、そのポジションこそが自分の居場所であるとも、言わんばかりに。 「篠原君」 「ああ係長、何でしょう?」 「もう二十二時を回っている。今日は遅いからもう帰りなさい」  ふう、と安良沢は溜息をついて。  大変なのはわかるがね、と付け加えた。 「ええと、なかなかにちょっとこの案件大変で、明後日までに一区切りしなくちゃいけなくて」  初めて担当する業務なのでバッファ取ってます。 「でも葦毛さんに沢村さんも随分忙しそうにされてて、ちょっと見て欲しいって言えなくて」 「そうか。ええと……篠原君のそれ、どんなものだったっけね」 「えっ? ああ、別にその、大したことはないというか……」  自分の手際が、少し悪いだけで。 「手際が悪いというけれどそれは、君のせいなのかい?」  安良沢は首を傾げて、腕を組んだ。それから少し、黙り込む。 「ふうん、これねえ。へえ」  煌々と光るパソコンの画面を右上から左下まで一瞥し、それから机の上に広げた資料を見やり。スラックスの右ポケットから、財布を取り出した。 「……篠原君、自販機でコーヒーを二本、買ってきてくれるかい」  ちゃりちゃり、と手渡されたのは三百円。  缶コーヒー二本を買うには些か多い。 「お釣りは要らないよ」 「…………」  自販機に百円玉を三枚滑り込ませてから、緑色に輝くボタンを押した。半ば無意識だった。よくよく確認をせずに、自分がよく飲む缶コーヒーを、二本手にしていた。 「あ……」  ――係長の好みの味とか、聞かなかったなあ。  ――こういう、気が利かないところが、駄目なんだ。  安良沢は足音に気づいて、耳をぴょこりと張ってから、篠原の方を向いた。安良沢はキャスター付きの椅子をどこからか転がしてきて、篠原のパソコンの画面をじいっと見つめていたのだろう。 「おっ、おお。すまないね」 「係長。コーヒー、買ってきました」 「あ、篠原君ちょっと。ほら、ここ」  安良沢は画面の端を指さして。アルファベットと数字が均一に並ぶその先に、とある固定の数値があった。 「今ちょっと見てたんだけどね、このツールのね、数式と、基準値が若干違うんじゃないかな。多分だけど」 「……基準値、ですか?」 「そうだね。えっと……この数値は、自動で変わらないんだ。毎月手動で更新するの。法律とか情勢とかで指針が変わるから、迂闊に自動化が出来なくてね。この業務、昔自分もやったことがあって」  自分もここでよく躓いたなあ、と安良沢は苦笑いをした。 「これを……係長もですか?」 「そうそう。なかなかこれは単純な集計作業なんだけど、意外と骨が折れるところでね。信頼性の担保が強く求められるんだよ」  ――曲者なのはこの調査仕様で。  ――だから、君の手際が悪いわけではないんだよね。 「係長……」 「この調査業務はね、良い意味でも悪い意味でも昔から続く、レガシーな代物なの。とは言え失敗したらすぐに大問題になっちゃう」  それはね。 「この案件で提出したデータを使う方々がいるんでさ」  自分たちが担っている以上、責任持ってやらなくちゃ。 「係長……」 「あんまり目立たない、地味な仕事なんだけど」  意義はちゃんとある。だから、頑張って、やり遂げよう。 「コーヒー、ありがとう。自分、この銘柄好きなんだよね」 「あ、いえ……俺もこのシリーズ、好きなんです」 「へえ、そうなんだ。篠原君も甘党なんだね。意外だな」  眼鏡の奥、くるりと丸い大きな目。  頬が上がると同時に、くしゃりと崩れる表情。  ――その瞬間。自分の中で生まれた何か。  ――単純に、惹かれてしまった。  ――その笑顔、声色、人柄に。  *** 「何とか終わったね。お疲れ様」 「は、はい……係長のおかげで……」  ふう、と篠原は息を吐きつつ、パソコンの電源を落とした。まばたきを三回。随分画面を凝視していた気がする。ふわあ、と欠伸をしながら伸びをして。  データも整えてメールで提出し、レジュメも作成してひと段落という段階まで、どうにかこうにか漕ぎ着けた。 「ふふ。昔やっていたことだからね。たまたまちょっと、知識と経験があっただけ。さて」  宿直警備員のお叱りを受ける前に帰ろうか、と安良沢はハンドタオルで額を拭いながら言った。  ふたり、並んで夜道を歩く。最終電車の発車時刻までは、まだ若干の余裕がある。このペースで歩いていけば問題ない。 「そう言えば随分と」  星がきれいですね、と篠原は天を指さした。 「田舎だからねここは。篠原君は、地元この辺じゃないのかい?」 「あっ、ええ、まあ、ちょっとだけ上り方面というか」 「そうなんだ。何でうちなんかに就職を? 田舎で不便なのに」 「えっ? あ、ああ、何となく……」  何処で何をしようか、って就職先を探していた時。うちのホームページを見かけて。すごく素敵だったんです。職場案内とか。 「惹かれたんです。確かにいろいろ就職口はあったけれど……ここで働けたらいいな、って」 「ふうん、ホームページかあ」  ふふ、と安良沢は笑って。 「……? 何かおかしいこと言いました?」 「いいや? ただ、ちょっと、懐かしいなって思っただけで」  他愛もない会話を続けるだけで心はじわりと温かく。じめりとした夏色の空気のべたつきもまるで気にならないくらいに、さらりとした清々しさがあった。
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