第1章 ガーゴイルのまなざし 3.遠くの空

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第1章 ガーゴイルのまなざし 3.遠くの空

 学園の一年目、一有(いちう)はクラブ活動に参加しそこねた。  クラブ活動の単位は必須ではないといわれたので、良さそうなところがあれば入ろうとのんびり構えていたら、いつのまにかどのクラブも同好会も新入生募集期間が終了していたのである。  五月の連休後、遅まきながら一有が気づいたのは、中等部からの持ちあがり組(つまり自分以外の全員)は、四月はじめの時点で目星をつけていた、ということだった。聖騎士学園では、囲碁や将棋のようなクラブは初等部生も参加できるうえ、高等部の文化祭や体育祭は初等部から中等部まで見学に来る。事前に情報があるから決めるのも早い。  もっともあとで考えると、一有も四月の前半は、文化系体育系問わず各種クラブに勧誘されていた。教師も同級生も声をかけてくれたのだ。ところが新しい環境に馴染むので精一杯だった一有はクラブ活動までのぞく余裕がなく、入部シーズンを逃してしまった。  田舎の山の中にたつ全寮制男子高では、クラブ活動に参加しない生徒の放課後の行き場は寮の自習室だ。授業の課題は毎日けっこうな量が出たが、自宅学習慣れしていた一有にとって量をこなすのは苦ではなかった。  高等部の寮は二人部屋だったが、一有はひとりで使っていた。テキストを抱えて自習室を出て、自室に戻る途中で談話室に行った。夕食まではテレビをぼうっと眺めてすごす。  寮には何十人も住んでいるのに、談話室のテレビは人気がなかった。映るチャンネルが少なすぎたからだ。おかげで一有は夕食前に放送される通信制大学のテレビ講義を独占できた。夕食後の自由時間も日によってはテレビを独占できた。  クラスがちがう(きょう)に談話室で毎日会うようになったのは五月のなかば頃だろうか。  中高一貫で二学期制の聖騎士学園では、前期の中間試験が六月はじめに行われる。授業中に試験範囲について教師が説明するようになっても、一有は毎日消灯までテレビをみていた。試験対策のやる気が出なかったというよりも、ひきこもりの自宅学習から三学期制の公立中学をへて入学した一有にとって、中間試験のための勉強がいまひとつぴんとこなかったせいもある。  テレビをみている一有に話しかけてくる生徒は時々いたが、番組内容が堅すぎたのか――通信制とはいえ大学の講義で、内容は「災害社会学」「犯罪心理学」「メソアメリカ文明史」「生活のための化学」といった調子だから無理もない――退屈していつのまにか消えてしまう。  このままなら一有は「オメガ並みに綺麗なベータ」という評判に「ちょっと変わってるけど」が追加されて、平和に放置されたにちがいない。ところが叶が談話室にあらわれ、毎晩一有の横に座るようになると、事態は微妙に変わった。 「メソアメリカって、南米?」 「メキシコ。マヤとかアステカとかの遺跡がある」 「ふうん」  最初はこの程度の会話だったと思う。それがだんだん、共通の授業の話や好きな小説、音楽の話に広がって、一有は叶に談話室で会うのを楽しみにするようになった。叶が一緒にいると他の生徒も寄ってくるようになって、いつのまにかテレビがそっちのけになる日も増えた。中間試験が終わったころには一有は寮にすっかり溶けこみ、朝や夜に話をする生徒も増えた。  それでも一有の隣にいちばん長い時間いたのは叶だった。  中間試験の前日も、一有は叶と談話室で顔をあわせた。他の生徒はひとりもいなかった。自室で勉強しているにちがいない。そのとき一有は寮の風呂からあがったばかりで、長袖のTシャツにスウェットという恰好だった。叶は長袖のシャツをきっちり着ていた。 「試験対策は?」  ふたり同時に口に出して、ふたり同時に笑った。一有が何気なく目をあわせると叶は目元を赤く染めたが、一有はそこに何の意味も見出さなかった。それより、身長至上主義の信者として、一有はもっと重要なことに意識を奪われていたのだ。目をあわせたときの自分の首の角度から、叶との二十五センチ差がすこし縮まったのではないかと思ったのである。  その日も消灯までふたりでテレビをみていたが、中間試験の成績はふたりとも悪くなかった。叶は学年五位、一有は八位だった。  期末試験は同じようにはいかなかった――叶はともかく、一有の場合は。  二学期制の聖騎士学園では、期末試験は九月下旬に行われる。授業は八月の最後の週からはじまるが、憂鬱な夏休みをおえて寮に戻った一有は、残暑もあいまって勉強に集中できなかった。十月は体育祭、十一月は文化祭と、その後の学校行事が目白押しだったせいもある。春から数か月たって、やっと寮やクラスに馴染めた一有には気を散らす要素が多すぎた。  叶とは夏休み前と同じように寮の談話室で顔をあわせた。夏休み明け、久しぶりに叶の顔をみたときは嬉しかったものだ。しかし学校では選択授業以外ではほとんど顔をあわせなかった。叶はアルファの例にもれず、クラス運営やクラブ活動で頼りにされ、忙しそうだった。  それでも彼の期末試験の結果は学年四位。ところが一有は十九位と、前回から大幅に順位を落とした。  当然のことながらクラス担任は心配した。 「境、何かあったか?」 「夏休みのあいだに復習ができなくて」  一有はぼそぼそと答えた。「後期は取り戻します」  前期の終業式は九月最後の金曜日、それから十日間の秋休みを挟んで後期がはじまる。終業式のあとも学園に残るのはクラブ活動のある一部の生徒や、残って勉強に集中したい三年生くらいだ。たいていは帰省する。  一有は帰らなかった。  寮へ戻る途中のグラウンドではサッカー部が練習をしていたが、食堂はがらんとしていた。学園の周辺は山と別荘分譲地だ。受験が近い三年生を見習って勉強でもするかと思ったが、一有のやる気はしぼんだままだった。いつもなら混雑する風呂にはゆっくり入れたが、ふだんにぎやかな建物から人の気配が消えると、どこか不気味だった。  風呂上がりの濡れた髪のまま、ジュースを持って談話室に入るとテレビがつけっぱなしだった。誰もいない部屋で音だけが響いている。さらに不気味な気分がつのって、一有はテレビを消すと部屋に戻ることにした。廊下に出ようとした時、叶とはちあわせた。 「キョウ!」  一有は驚いて声をあげた。「帰らなかったのか?」  叶は屈託ない様子で笑った。「そっちこそ」 「俺は……成績下がったし、帰っても勉強するだけだから同じだと思って……キョウはどうして?」 「俺も勉強しようと思ってさ」 「学年四位だったのに?」  叶は平然としてうなずき、唐突にいった。「イチウ、背、伸びてないか?」 「え?」  一有はとっさに背筋をのばし、叶をみつめた。たしかにすこし伸びている。叶の目線がすこし近くなっている。では一六〇センチは突破して、ひょっとしたら一六三くらい……。 「イチウ?」  叶が怪訝そうに眉をひそめた。しまった――と一有は思った。ため息に気づかれた。 「何でもない」 「何でもないって――」 「三センチかそこら伸びても変わらないって思っただけだ。おまえの高さからみれば、こんなの誤差の範囲だよな」 「一有?」  またよけいなことをいってしまった。一有は顔をそむけた。 「悪い。おまえは関係ない」  叶はさぐるような目で一有をみた。 「何かあったのか?」 「いや、何も」 「話せよ」 「何もないよ」  談話室の出入り口で、なぜか押し問答のようになってしまった。叶を押しのけて行こうにも、身長差二十二センチ(推定)で幅も一有より大きい同級生は全身で一有の行く手を阻んでいる。本人にその気はないのかもしれないが、一有には通れる気がしない。またため息をつきそうになったとき、頭の上で叶がいった。 「イチウ、コーヒー飲みにいかないか?」 「え? 食堂に?」 「いや、外に。明日」 「明日? いいけど……どこに」 「案内する。集合は朝五時半、ここで」 「は?」一有は目をぱちくりさせた。 「まさか、歩いて遠くへ行くとか?」 「明日わかる。じゃあ……」  ふいに叶の両手が一有の両肩をぎゅっとつかんだ。まるで抱きしめられたみたいに。手はすぐに離れたが、一有はぽかんとしたまま廊下をいく背の高いアルファの後姿をみていた。冷えた肩に手のひらのぬくもりだけが残った。
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