第八話 箱庭

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第八話 箱庭

梅雨の合間の晴れた休日。 午前中に小さな奇跡を経験したミホは上機嫌であった。 中学生の頃の親友に偶然にも再会出来たのだ。 (きっと参拝のご利益だわ…。) まるでジェットコースターの様に気分が上がる。 彼女の店のピザをお土産に帰宅。 (やっぱり大きいけれど冷凍しとけば大丈夫。) 一息付いている所に武田からラインが入る。 グッドタイミングにも遊びに来れる様になったとの事。 流れが良くなっているのを感じずにはいられない。 (良い事って続くんだな…。) 少しして武田がやってきた。 ミホは、そのタイミングでレンジのスイッチを押す。 ミホは今日の奇跡の再会を武田に話し始めた。 誰かに聞いて貰える事で、余計に喜びが増していくのを感じる。 いつもの様に武田はニコニコと話を聞いてくれていた。 ちーん。 レンジが温め終わった事を知らせてきた、…好きな音の一つ。 ミホはピザを切り分けて一切れ皿に乗せる。 そして武田の前に得意気に置いた。 「これ、私の中学の同級生の店のピザなの。  きっと美味しいと思うよ。」 「もう既に見た目で優勝してるよね、頂きます。」 彼と付き合い始めてから、楽しくて仕方がなかった。 長引く梅雨の荒天も二人で過ごすには影響は無い。 寧ろ二人だけで部屋で過ごすには、うってつけである。 夕方から訪れてきた武田とピザを頬張れる幸せ。 明日は、この部屋から一緒に出勤するのである。 ソーシャルディスタンスは部屋の外の世界でだけの決まり事。 ステイホームの新生活様式も寂しく思う事すら無くなっていった。 その緊急事態宣言も解除される事になったみたいである。 「うん、とっても美味しいねコレ。」 「でしょ、落ち着いたらお店に食べに行こうね。  親友にも紹介したいし。」 「また楽しみな予定が増えたね。」 「うん。」 世界が変化していって、ルールが更新されたとしても。 ミホは、大丈夫だという確信を持てた。 つい顔が微笑みで一杯になってしまう。 (武田クンと一緒なら心強いもん、大丈夫。) すっかりピザを堪能しきってしまった。 食後のアイスコーヒーを飲みながら寛ぐ。 至福のひと時を実感する。 ニュース番組で旅行キャンペーンが紹介されていた。 全く予断を許していないが、既に緊急事態宣言は解除されている。 そこへ政府が旅行代金を支援する取り組みが始まるとの事。 ミホはピザで満腹となり、全く上の空で眺めていた。 しかし武田は真剣な表情で説明を見ている。 別のニュースが流れ始めた途端に、話を切り出してきた。 「ミホちゃん、夏休みに旅行に行かないか?」 「え…?」 「大阪にさ、ボクの町を見てもらいたいんだけど…。」 「お…大阪?」 「そう、吹田市の江坂って駅なんだけど良い所だよ。」 「吹田市…、江坂…。」 (全くイメージが浮かんで来ないな…。) 「キャンペーンで安くなるみたいだし、チャンスかなって。」 「大阪、行ってみたかったです!  東京よりも元気なイメージがあるので。」 「じゃ、予定を立ててみるからね。」 「お任せします。」 今迄、武田の提案でガッカリした事は一度たりとも無かった。 この旅も楽しくなりそうな予感しかしない。 ミホは全てを彼に任せる事に決めていた。 (たこ焼きが美味しいって片山主任が言ってたっけ…。) 「それで旅行の一番の目的なんだけどね…。」 「私、…分かっているつもりです。」 「えっ…、本当に?」 武田が驚いてミホの顔を真剣に見つめる。 ミホは全てを理解した表情で見つめ返した。 「たこ焼き…、ですか?」 「…!?」 武田は途端に顔をクシャクシャにして笑い始めた。 ハズレた事が分かったミホも照れて顔が赤くなっていく。 「いや…、余りに予想と違う答えで…。」 「ごめんなさい…。」 武田は言いながらも、まだ笑い続けている。 ミホも照れながら微笑みを返す。 笑い終わりに突然、武田が切り出してきた。 「その…、ボクの実家で両親に会って欲しいんだ。」 「えっ、…ええっ!?」 その言葉に驚き過ぎて、ミホは何の返事も出来なかった。 照れていた顔が余計に紅く染まっていく。 (それって…、これって…。) 「それでミホちゃんさえ良ければ、プロポーズしようかな…って。」 「!?」 「その予定で進めていい?」 「…はい。」 ミホは全てを彼に任せる事に決めていた。 武田の提案でガッカリした事は一度も無かったからだ。 全てが良い方向に転がって行くのが感覚的に分かっていた。 「江坂はね、美味しいお好み焼きの店を知ってるから。  …もちろん、たこ焼きも美味しいよ。」 (別にこだわっている訳じゃ…。) ミホは先程の台詞を思い返して恥ずかしかった。 武田の表情は相変わらず崩れたままだ。 それを見てミホも少しづつ笑顔になっていく。 そして梅雨を引きずったままの夏が来た。 お盆の時期を迎えるにあたり夏季休暇が始まる。 ミホにとっては人生が変わるであろう夏休みが来る。 初めての大阪。 初めての誰かとの旅行。 初めての家族への紹介。 ワクワクしていた気分がドキドキに変わっていく。 (ご両親に良い印象を与えられればいいな…。) 飾られている写真立ての母は微笑みながら見ていた。 娘の胸の内も…。 そして、いよいよ大阪旅行の前日がやってきた。 ミホはワクワクドキドキで荷造りして準備を進める。 やはり予定は武田が組んでくれていた。 初日には武田の故郷の江坂を探訪。 二日目に実家で両親への紹介、今回の目的として。 三日目に大阪で観光、四日目に京都で観光。 五日目に帰京と割と緩いスケジュールになっていた。 (ご挨拶が上手くいったら、観光は楽しいだろうけど…。) 荷物をキャリーバッグに詰めながら、小さく溜息を吐く。 武田は全く心配する必要なんて無いと言ってくれていた。 (そんなの無理に決まってるよね、母さん…。) ミホが小学校に上がる頃から母子家庭である。 母は経済的にも精神的にも父親不在を感じさせなかった。 ミホの下には弟と妹。 母は昼夜で仕事を掛け持ちして子供達を育んだ。 そんな母を見てミホも立場を自覚していく。 母が不在の時は自分が母親代わりになって頑張っていた。 皆が家を出て母親を看取り家を受け継ぐ。 それは皆の帰れる場所と、思い出を守る為であった。 そしてようやく自分が頼ってよい立場になれたのである。 武田。 もしかしたら家族になってくれるかも知れない人。 ミホは母が健在だったら武田を紹介出来たのに…、と思った。 でも絶対に気に入って貰える確信は持てていた。 反対される心配なんて全く考えられない。 (そっか…、武田クンもそう思っているって事だ…。) ミホのドキドキは少しづつ薄まっていった。 それに比例してワクワクが胸いっぱいに拡がっていく。 表情も笑顔になりつつあった。 次の日の早朝、ミホは目覚まし時計が鳴る前に起きてしまった。 その事に自分自身で驚いてしまう。 遠足前の小学生みたいにワクワクし過ぎていた。 四泊五日の予定である、四日も家を空けるのは初めての経験。 何もかも初めての旅行であった。 それでも何の心配も無くなっている事も初めてである。 「それじゃあ行ってくるね…、母さん。」 ミホは笑顔で写真の母に挨拶する。 そのミホ自身が写真の母に似てきていた。 キャリーバッグを引いて玄関を出る。 家を空ける為に鍵を締めるのも初めての経験だった。 少し鍵を見つめてから締める。 かちゃっ。 出社する時と同じ音なのに、何かが心に響いた。 閉めたドアを見て急に胸に熱さが込み上げてくる。 (ちょっとの間だから…、直ぐ帰ってくるから…。) 家の前の通りから大通りへと出ていく。 庭に沿って通りを駅に向かって歩き始める。 歩く速度を少し落として、庭から家を眺めてみた。 ミホと家族にとっては全てである家と庭。 もしかしたら離れる事になるかも知れない家と庭。 歩きながら眺めているミホに、うっすらと浮かんでくる景色。 そこでは幼い頃の弟と妹が犬と遊んでいた。 それを元気な頃の母が眺めながら佇んでいた。 皆、楽しそうに。
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