文章を書く、文章を読んだせいで。[忘備録]

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ceac5d04-0409-427e-aa68-3d4b27a7b03c 思ったことをつらつらと書き留めるページ。2021/04/05。 何を恐れているのかわからない。何を嫌っているのかもわからない。境目がどこかもわからない。考えろ、考えろ。昨日の自分はどうだろう。明日の私達はどうだろう。一年前の自分はどうだろう。一年後の私達はどうだろう。何を遠慮しているのだろう。偽っていることか。隠していることか。偽っているわけでもない。隠しているわけでもない。俗に言う「住み分け」というやつだ。それが期待になっているのか。ここにいる「私」は「ここ」にしかいない。(……あ、とりあえず音楽は止めてもらっていいですか。やっぱ集中できないわ)「いつもの」私と近しい人に「ここ」の存在は知らせていない。「私」と「いつもの」私は別人格でも「使い分け」でもない、ただの内包する「一部」と「全て」にしかすぎない。ならばそれを受け入れてくれようか。「一部」しか知り得ない人に「全て」をさらけ出すことに、意外にもあまり抵抗はない。「いつもの」方が無害、しかし「いつもの」方が面白みもない。「私」を面白がって関心を寄せる人の期待には、残念ながら「いつもの」私では応えられないだろう。 終わりのない流れ、先の見えない関係、不明瞭な道筋。どう転がるかわからない展開。そういった類のものに不安を抱くのか。見えない物が怖いのは仕方ない。真っ暗な部屋で怪奇現象に合うようなものだ。未来という時間軸全てに臆病になるのか。過去の全てを押し殺すのか。寄せられる(☒☒☒)に引き寄せられるように這い上がってはざわつく嫌悪感。嫌悪の矛先は自分自身だ。 自分もわからない。相手もわからない。私は応えたい。相手に応えたい。でもそれをこなせるほど器用じゃない。相手の望む私で居続けられる我慢強さもなんてない。 わからない。他人のことがわからない。全くわからない。 どうして自分を好きになってくれるのか。どうして何も変わらずに接してくれたのか。どうして笑顔で迎えてくれるのか。どうして心配してくれるのか。どうして好きになってくれるのか。わからない。私のどこが好きなんだろう。好きになってくれるような要素なんて、然程ないのに。わからない。 でも自分自身は嫌いじゃない。つもりだった。今の自分は嫌いじゃない。でも一年前の自分は嫌いだ。消し去りたい。二年前も三年前も、五年前も、十年前も、二十年前も、ずっとずっと嫌いだ。三年後の自分はきっと今の私のことが大嫌いだろう。でも明日の自分に好かれるように生きることなんてできない。明日の自分は何が好きだろうか?何を考えているだろうか?何に後悔しているだろうか?わからない。わからないからだ。過去の自分の何が嫌いなんだろうか。馴れ馴れしいところか。世間知らずのところか。でしゃばりなところか。サボりぐせがあるところか。いい加減なところか。不真面目なところか。うるさいところか。攻撃的なところか。プライドが高いところか。無知なところか。愛想がないところか。ドライなところか。空気が読めないところか。嫉妬深いところか。動かないところか。バカなところか。わからない。日に日に増していく過去の自分への嫌忌。全て消し去りたい。全て、全て。これは自己同一性の話か?良かったことはないか?楽しかったこと。腹の底から笑ったこと。感動したこと。誰かと一緒に成し遂げたこと。嬉しかったこと。一生の思い出になるような出来事。青春の一ページ。そんなものはないのか?。春夏秋冬、朝、昼、夕、土、空、草花、水たまり、足跡、重たいリュックと、ジャージの入ったサブバッグ、むせるような落ち葉を焼くにおい、しんとした空気と割くような鳥の鳴き声、2回折ったスカート、アニメキャラのストラップのついた携帯電話、夕日が差し込む電車内、遊び疲れて無言なまま揺れる、「またね」と「おはよう」。 それら全て消し去ってもいいものか。いいものなのか。綺麗な思い出の「そこ」に私はいない。私はいない。私が邪魔だ。
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