ダブルバインド

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ダブルバインド

「ヤクの売買を行っている者を、何人か出頭させてください」  里見雅矢(さとみまさや)は緊張した面持ちで背筋を伸ばし、冷や汗の滲む拳に力を込めた。 「なるほど。それで手打ちにしてくれるってことか」  ローテーブルを挟んだ向かい、革張りの黒いソファにゆったりともたれている男が、そう言って脚を組み替えた。ギ、とソファの軋む音に里見の身体が微かに震える。ほんの僅かな所作でさえ、男は異様な威圧感を放っていた。  細面の整った顔立ちに、細身の身体。黒いスーツは恐らく男のために設えられたものだろう。よく身体に馴染んでいる。  オールバックに撫で付けた黒髪は、艶があり若々しい。四十前半ほどに見えるが五十に近いというから驚いた。  そして何より、里見が釘付けになったのはその双眸だった。  獰猛な蛇のような、冴えた、ひやりとした切れ長の瞳。視線が合うと石になるというのはこういう目のことを言うのだろうと肌が粟立つ。  これが、指定暴力団名和田(なわだ)組若頭、尾田惣次(おだそうじ)――  口内に溜まった唾をごくりと飲み込み、里見はいっそう背筋を伸ばした。 「八嶋(やしま)のヤツはどうした。もしかして死んだか? だったら帰りに香典でも持っていけよ。一本くらいは包んでやるから」  腹の上で手を組んで、尾田がくつくつと喉を鳴らす。視線は真っ直ぐに里見を捉えている。値踏みをしているのだろう。どう遊んでやろうかと言わんばかりの視線だった。 「……いえ。八嶋課長はお元気です」  からかわれているのは十二分に承知していたが、ここで軽口を返す度胸は持ち合わせていない。  そう、そんな度胸など無いのだ。それなのに、どうして。  心の隅の方でもう一人の自分が嘆いている。  里見は半年ほど前まで総務課の警官だった。それがどういう訳か、突然に組織犯罪対策課――所謂、マル暴への異動を命じられたのだ。  別段、体格が良い訳でも強面な訳でもない。顔立ちに関して言えば、どちらかと言えば女性的な童顔である。自分がマル暴に適しているとは到底思えなかったし、未だにスジ者と対峙するのは肝が冷える。  そこへ来て、この日、里見は上司である八嶋から「おつかい」を頼まれていた。 「名和田組(アチラ)さん、どうもガサに非協力的でな。ホラ、最近マスコミでも取り上げてるだろ、脱法ドラッグ。あれの売人と交換条件ってことで話つけてきてくれよ」  本物のスジ者と見紛うばかりの風体をした八嶋は、恰幅の良い腹を撫でながら事も無げに言って里見の背中を叩いた。  一人でですか、と問うと、「当たり前だろ。お前もそろそろ、そういうことも出来るようになれ」と、もう一度バシッと叩かれた。  冗談じゃない。内心ではそう思っていても、口に出すことは出来ない。  警察官になってから、何度「冗談じゃない」と思ったことだろうか。総務課でも書類の改竄を頼まれることがしばしばあった。マル暴にしても、まさかガサが事前通達の『予定調和』であるなど思いもしなかった。  それでも警官を続けているのは、親代わりに育ててくれた祖父母が警官になったことを喜んでくれているからだ。  ぐっと奥歯を噛み締めると、尾田が徐ろに身を乗り出してニヤリと笑った。 「まあ、そう怖い顔すんなよ。仲良くやろうや。メシでも食ってけよ」 ◆◆◆  通されたのは組事務所のダイニングだった。内装は高級レストランの個室のようで、ダイニングと言って良いものか疑問に思える。  本来であれば接待のようなことは御法度なのだろうが、「八嶋もよく食っていくよ」と言われれば、里見に断る術はない。いや、最初から断る選択肢などは存在しないのだ。 「どうぞ」  顔に傷のある若い男が、里見のために椅子を引く。生憎そういうマナーとは縁遠く、里見はギクシャクとした動きで椅子に腰掛けた。 「楽にしろよ」  里見とは反対にヤクザらしからぬ優雅な所作で椅子に腰掛けた尾田が、面白そうに瞳を細める。  ――こんな危険な男と食事をして、何を話せばいいんだ。  尾田の視線に居心地の悪さを覚えていると、ダイニングの扉が開き、目の前に皿が運ばれてきた。 「遠慮しないで食ってくれ」  言って、尾田がナイフとフォークを手に取った。  白い円形の皿の上には、分厚いステーキと付け合せの野菜が彩りよく盛られている。  本当に口にして良いものかと戸惑っていると、尾田の鋭い視線に射抜かれた。 「食えよ」  低い声が響く。  言葉では何も返せず、里見はナイフとフォークを手に取った。恐怖か、緊張か。ステーキを切る手が僅かに震えている。  その間も、尾田は肉を口に運びながら里見をじっと見つめていた。  尾田の冷えた視線が里見を縛る。まるで蜘蛛の巣に絡め取られているような感覚だった。  ――大丈夫、大丈夫だ。食えばいい。ただ、それだけだ。  念じるように内心で呟き続け、肉を口内に差し入れる。  味など感じないだろうと思われたが、舌に甘い脂の味が広がり、それがふわっと鼻に抜けていった。もしゃり、と歯で噛むと、柔らかくとろけるように塊が解けていく。 「美味しい……」  あまりの美味しさに感動が思わず口に出る。  里見の様子を見ていた尾田が、肉を飲み込み口角を上げた。 「だろう?」 「これは……どこの牛肉ですか?」  どこのどんな品種かと訊ねたところで、里見には到底手の出ない代物だろうが、自分が何を口にしているのか知りたいと思った。  今日、初めて正面から尾田に視線を向けて訊ねると、尾田がフォークで肉を突き刺して答えた。   「人肉」  思わずギョッとして、ナイフを入れる手が止まった。  皿の上で脂を光らせる肉を凝視する。口内に残った肉が、俄に飲み込めなくなった。 「ウソだよ。A5の神戸牛だ」  尾田がくっくっと肩を揺らし、フォークの肉を食んで咀嚼する。  すっかり食欲の失せた里見は、食器を持つ手をテーブルに乗せたまま、動けないでいた。 「安心して食えよ。人間からそんなに形のいい肉、取れねぇから。なあ?」  尾田がそう言うと、壁際で待機していた若衆数人が低い声で笑う。何が可笑しいのかと思いつつ、里見も頬を引き攣らせてハハ、と乾いた笑いを漏らした。 「……ところでよォ」  すっかり皿の上のものを食し終えた尾田が、ナプキンで口を拭いながら里見に投げかける。  ところで、と言っているが、ここからが本題であるような気がして、里見の背中に冷たいものが走った。 「お前、この間、借金作っただろ」  ギクッとして、反射的に身体がピクリと反応する。それを見た尾田がテーブルに肘をつき、組んだ手に顎を乗せた。口角がニヤと嫌に持ち上がる。 「高校時代のダチに泣いて頼まれて、保証人のサインしたんだってなぁ、三百万も。それもタチの(わり)ぃ闇金だ」  カタカタと身体を震わせて、里見が怯えた視線を尾田に向けた。  つい三日前の出来事だ。高校時代からの、親友だと思っていた男に泣きつかれ、里見は保証人の欄にサインをした。返す宛はあるのだと必死に説明していた親友が、次の日には姿を消したのだ。結果、里見は三百万の借金を負うことになった。 「……どうして、そんな……」 「どうして? ウチのシノギだからだよ」  くつくつ笑って、尾田が椅子から立ち上がる。  丸いテーブルを回り込み、里見の後ろに立って椅子の背もたれに手をかけた。 「闇金からの借金、カイシャにバレたら大変だなぁ?」  尾田の低く掠れた声が耳元で響く。  里見の額からは、止めどなく冷や汗が吹き出ていた。 「まあ、これも縁だ。三百万、ナシにしてやるよ」 「……ほ……!」  本当ですか、と言いかけたところで、尾田が背後から里見の首元に腕を回してグッと引き寄せた。 「定期的に捜査情報流してくれよ。それが条件だ」  ヘッドロックの姿勢で里見の頬に顔を擦り寄せ、尾田が囁く。懇願するような媚びた声音だが、そんなつもりなど毛頭ないことは瞭然だった。 「がっ、……は……っ、そ、んな……」    警察官の矜恃が恐怖に僅かに勝る。苦しい息でそう言うと、尾田が真横で笑んだのが分かった。 「サツ、辞めたかねぇだろ? 家族は大切にした方がいいぞ」  ゾッとした。  尾田は、おそらく自分の何もかもを調べている。  脳裏に「就職おめでとう」「警察官なんて鼻が高い」と言って、嬉しそうに笑う祖父母の顔が浮かんだ。  心臓がいまだかつて無いほどドクドクと脈打っている。頬を伝った冷や汗が、ポタリと落ちてグレーのスーツに染みを作った。 「どうした、答えられねぇか?」  首元を締めていた腕が緩み、今度は里見の肩をわざとらしく揉んでみせる。 「そんじゃあ、こうしよう」  言って、尾田が里見の後ろから皿の上の肉を切り分けはじめた。ガツッと肉にフォークを突き刺し、里見の左手に握らせる。 「お前がこの肉を食い切ったら、借金はナシ。食わなきゃ……なあ、あんまり怖いこと言わせんなよ」 「……っ」  寒くもないのに寒気がする。震えが止まらない。 「さ、どうする?」  肩に置かれた尾田の手が、やけに重く感じられた。 「食うか、食わないか」  尾田の声が呪いのように木霊する。  里見はごくりと喉を鳴らして、小刻みに震える左手をゆっくりと口元へ運んでいった。 ◆◆◆  県警組織犯罪対策課。  薄暗い室内で、二人の男が窓際に立ち紫煙をくゆらせていた。  署内禁煙であるが、この部屋だけはタバコの匂いが染み付いている。 「本当に里見だけで良かったんですか、課長」 「良いも何も、ご指名だからな」  ふう、と気怠く煙を吐き出して、八嶋は面倒そうに顔を顰めた。 「尾田の好きなツラしてんだよ、アイツは」  八嶋の言葉に、部下の男が、ああ、と納得したように呟く。 「じゃなきゃあんなナヨいのウチに喚ばねぇだろ」 「首尾よく取り入って情報持ってきますかね、アイツ」  八嶋は、隣で天井に向かって煙を吐き出す部下の男をチラと横目で見やって煙草を咥えた。 「働いてもらわにゃそれこそ税金の無駄ってモンだ」  言って嘲笑にも似た笑いと共に煙を吐き出した八嶋に、部下の男は「怖いっすねぇ」と、同じように笑むのだった。  ゆるゆると立ち昇る紫煙が空中で混ざり合い、苦い香りが部屋に充満していく。  窓の向こうには、燃えるような夕日がビルの谷間に沈んでいた。
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