結び

2/4
1人が本棚に入れています
本棚に追加
/4ページ
 ある日工場長から営業先に同行するように言われた。新しい素材を取り扱うので取引先を開拓するということらしい。工場長は本社からの出向で数年の腰掛けだと言われている。自分が抜けたあとに事情を知るものを残す必要があり、工学部卒というだけの理由で私を抜擢したのだろうという空気が、高卒のベテランが多い現場に漂った。実際にはたびたび作業を抜けても影響が少ない新米というだけの理由だと思う。なにしろ情報工学科の私には金属素材など畑違いもいいところだったのだから。  大学入学時に父に買ってもらったスーツは、入社の面接以来押し入れに放り込んだままだ。父は毎晩ウィスキーの水割りを四杯、煙草をフィルターから二センチのところまできっかり五本のむ人だった。儀式めいたルーティンを繰り返すことが使命であるかのように、小児喘息の私が同じ部屋にいても煙草をやめなかった。極端に無口で笑顔も見た覚えがない。生きていて楽しいことはあったのだろうか。  翌週にはネクタイを締めて出社した。営業先では私に出番はなくただ隣で座っているだけだ。そんな日が週一二日、他はこれまで通り工場でのタコ掛けに従事した。二月ほど経った日の終業後、ロッカールームで坂本さんが営業には慣れたかと話しかけてきた。慣れるも何もただ一緒にいるだけですと返すと、 「嬉しいんでしょうね工場長。低学歴とは話が通じないって嘆いてましたから」と呟いた。 「学歴なんてそんな大層なもんですかね」  直後、背後で大きな音がした。驚いて振り返ると、後ろ向きの平良さんの足許でロッカーの扉が少し凹んでいる。振り返りざま少し顎を突き出すと、「大卒がブルーカラー馬鹿にしやがって」と吐き捨てて大股で出て行った。油の臭いが鼻孔についた。 「なんなんですかね。あの人」  私が照れ隠しのように頬を強ばらせて言うと、「あの人もいろいろあるんですよ」と坂本さんはYシャツのボタンをとめた。「でもね彼は立派ですよ。十五からここで働いて、息子さんを大学まで行かせたんですから」  平良さんたちがブルーカラーなら、小さな服飾メーカーの部長だった父は紛れもなくホワイトカラーだ。しかしルーティンをこなすだけの人生に大差はないように思える。なら私は? さしづめ二つの穴を爪で引っぱられメッキされるのを待つだけの一部品だろうか。
/4ページ

最初のコメントを投稿しよう!