結び

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 営業の仕事が続くようなので、スーツをもう一着買うことにした。人形のような笑顔の店員はイージーオーダーを勧めてきたが、手の届く代物ではなかったので、既成のものを頼んだ。表情を変えずに出してきた何点かはどれも高価だったが、店員の笑顔があわよくば見下してやろうと狙っているように感じて、中間の価格の品とYシャツとネクタイも購入した。散財したが新しいスーツは気分は良い。  家に帰って袋を開けると小冊子が入っていた。初心者向けに紳士服を簡単に解説したものだ。皆に渡しているものかもしれないが、店員の笑顔が頭をよぎって耳が熱くなる。めくっているとネクタイの結び方があった。この機会に少し手の込んだ結び方を覚えてみようか。基本のプレーンノットの下のウィンザーノットに「ちょっとお洒落な」と解説がある。イラストの通りに巻いて、通して、締めた。なんだ、いつもの結び方じゃないか。その結び方は父に教えられたものだった。  入学式の朝、父は隣に並び手とネクタイの動きを逐一教えてくれた。私は父の手に集中して動きを真似たが、でき上がった結び目は歪だった。父は私の首元に手を伸ばすと結び目に指を入れて緩め、手際よく形を整えてきゅっと締めた。人指し指の関節が喉仏に触れた。父に触れられたのは幼稚園の運動会以来だったかもしれない。そうだ。あのときそっと顔を窺うと、父は視線を落としたまま口許に笑みを浮かべて、なんとも穏やかな表情をしていたのだった。
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