Chapter.4

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Chapter.4

■chapter.4-1  煙草の量が増えたと思う。自分でそう感じた訳ではなく、注ぎ込んでる金の量が増えたからそうだと思ったのだ。  一日に何箱吸っているのか自分でもよく分からない。眠っている時以外は大抵いつも咥えているような気がした。  飯をあまり食わなくなった。前までは自分でも燃費が悪いと自覚するくらいには、食っても食っても腹が減っていたように思うのに。  今は部屋にいる時りんさんやメゾさんが声をかけてくれてやっと、そういえばまだ起きてから何も食ってなかったと思い出すような毎日だった。  動いてないし、腹が減らないのは当然なのかもしれない。仕事に行く時以外は大概横になって煙草を吸っているだけだ。 「ねえホスケ、ちょっと痩せたね?」 りんさんがソファの隣でインスタントラーメンを啜りながら言う。俺はテレビをぼうっと観ながら「そー?」とだけ返した。  りんさんが作ってくれるインスタントラーメンには、いつもワカメと卵が乗っている。前はこんなの、一人前じゃ全然足りなかったなと、数年前の自分を思い出しながら卵の黄身を潰した。 「美味しい?」 「うん」 「ほんと?」 「うん」 「えへへ~。たぁんとおあがり」 「なにその口調」 麺を啜りながら笑うとりんさんは俺の何倍も嬉しそうに笑った。デクさんがいる時は、目も合わないのに。  仕事は、メゾさんが連れ出してくれるからなんとか行った。  スーツに着替えるのもかったるくて仕方なかったが、メゾさんが決まって「タバコ買えなくなるぞ~!」と俺にお決まりの台詞を言うのでやっとの思いで重い腰をあげる。  クレさんが「二人一緒なら送迎する」と言い出したので、俺はメゾさんのシフトに合わせて出勤するようになった。メゾさんには固定客がいるが俺は特にいないので、こっちが合わせる方が自然だ。  それに、自分一人できちんと出勤する気力なんてきっと今の俺にはないから、こっちの方が都合が良いのかもしれない。  勤務歴が長くなるとそれに比例して少しずつ客から声をかけてもらう回数が増えた。一度もテーブルにつけない日もないことはないが、そんな日はひと月に一回あるかどうかだ。  記憶が薄れかけた頃以前対応した客からふらっと声をかけられ、気まぐれにテーブルに誘われる。  テーブルに着いてからの接客は、多分、最初の頃より上手くなったと思う。なにを言ったら喜ぶとか、なにをしてほしいとか、なんとなく読めるようになった。  積極的な客は何人かいた。拒む理由もないから希望に応じるようにした。ずっと前メゾさんが言っていた「さすがにテーブルで本番する奴は」という言葉を覚えていたのでそこまですることはなかったが、際どいことは、結構した。  下に手を誘導されて触って欲しいと強請る客もいたし、テーブルの下に潜ってフェラしてくる客も、膝の上に乗ってディープキスしながらオナニーする客も、玩具を持参して俺に使わせる客だっていた。  テーブルをキープしたまま店外へ誘われたこともある。近くの駐車場に車を停めている、今から移動して、車中で最後までしようと。  さすがにその申し出は頷けなくて首を振ると、その客は二度と俺につかなくなった。しばらくしてから他の奴を指名しているところを見かけた。もしかしたらそいつのことも誘ったのかもしれない。  給料は増えた。店からもらう金以外にも接客中に客から渡される金もあったから、そういうのも全部合わせたら多分ひと月に三十から四十くらい稼いでいたと思う。  稼いだ金はやっぱり煙草と、それから酒と、あとはクレさん達から頼まれて買う煙草や食費に消えていった。  気付いたらいつの間にか寒さのピークは過ぎていて、三月に入ったのだとスマホの画面を見て知る。もうすぐ新しい年度が始まる。  普通に大学に通っていれば俺は三年生になる筈だが、もう最後に行ったのがいつだか思い出せないような奴が進級できるわけもない。親父やばあちゃんの顔がちらりと浮かんで、すこぶる憂鬱な気持ちになったから考えるのをやめた。  相変わらず毎日は、水が低い方へ流れるみたいに過ぎていく。思い出したくないことばかりだった気がするのにいつの間にか、何を思い出したくなかったのか忘れてしまった。  その日は明け方五時に部屋に着いて、かったるい体を引きずりながらなんとかソファーに座った。隣の部屋から誰かのいびきが聞こえる。  今日はどの部屋に誰が何人いるのだろう。玄関はいつも散らかっていて、部屋に何人いるかもわからない。  リビングは俺一人しかいなくて、もう面倒だからこのままソファーで寝落ちしようと思った。  スーツの上だけ脱いで背もたれに適当にかけてから、テレビのリモコンを操作する。誰かを起こすことのないよう音量を下げ、早朝のニュース番組を流し見する。  煙草を吸って、テレビから聞こえる音をBGMにして、ゆるゆるとやってくる眠気を迎え入れる準備をする。そのまま背もたれに身を預けて目を瞑ると、思考が現実と夢の間を彷徨い始めた。  今日接客した客の顔がぼんやり浮かんで、水面に映る景色のようにユラユラ揺れて、他の客の顔と混ざり合ったりする。  その過程でどうしてか、客の顔がとーこさんになった。  とーこさんは揺らめきながら口を動かしている。何かを言っているのだ。なんと言っているのか気になって近づく。するととーこさんの声がはっきり輪郭を持って俺の脳内に響いた。 「ほすけくんは誰も大事にできないもんね」  とーこさんが優しく笑って、暗闇の中に消える。  俺はその瞬間に目を開けて、現実に戻ってきた意識にホッとした。咥えたままの煙草が今にも灰を落としそうだったから慌てて灰皿に落としてやる。 「……」 夢の中のとーこさんの言葉は多少脚色があるが、けれど殆ど、実際に俺が言われた言葉と変わらない。  とーこさんは俺に「ほすけくんに大事にされることもないだろうって」と、あの時に言った。…きっとその通りなんだろう。だって俺は昔、違う人からも同じことを言われた。  ソファーの上にゆっくり倒れて天井を見る。カーテンの向こうからうっすらと差し込む外の光が、天井に直線的な模様を描いていた。 「…ホスケ?」 いつもキーくんとこずえさんが寝てる部屋のドアがそっと開き、その隙間からりんさんが顔を覗かせた。ドアの向こうに気持ちよさそうに寝ているキーくんとこずえさんの姿が一瞬見える。今日も二人は仲良しだ。 「おかえり、帰ってたんだ」 「うん」 「今日どうだった?」 「…んー…」 「疲れた?」 「…んー…」 ソファーに寝転んだまま適当な相槌を打っていると、りんさんが傍まで寄ってきて背もたれ越しに俺を見下ろした。 「ホスケ、お仕事慣れてきた?」 「んー…うん…どうだろ」 「楽しい?きつくない?」 「…んー…」 「ホスケおねむ?」 りんさんが俺の顔を覗き込みながら笑う。  化粧していないりんさんの顔はいつもより随分幼く見えた。と言っても俺はこの人の年齢を知っている訳じゃない。だけど俺やメゾさんと同じような時間帯に彼女も働いているから、俺より年下ということはないのだろうと思う。  キャバクラか、それともソープかは知らない。 「ホスケかっこいいからなあ。お客さんいっぱいついてるんだろうなあ」 「…そんなことないでしょ」 「ねえねえ、可愛い女の子とかいた?」 りんさんのその問いに、一瞬だけとーこさんの顔が浮かんでしまった。数秒遅れて「別に」と返したがもう遅かった。  りんさんは「えー!いるのー!?」と驚いた様子で声をあげ、背もたれの向こうからこちら側へせかせかと移動してきた。 「やだやだやだ!どんな子!?若い?それとも大人っぽい感じ?」 「だからいないってば」 「うそー!ホスケ今誰かのこと思い出してたじゃん!ちゃんと正直に言わないとだめ!」 りんさんは何がそんなに気になるのか、わざわざ俺の上に馬乗りになって執拗に問い詰める。眠気もあったからそのしつこさに苛々して俺は小さく舌打ちした。 「重いんだけど」 「うわ!ホスケ最低!」 「どいて」 「女の子に重いとか言う男はマジで最低だよ」 「どいてって」 「いやです、ホスケがちゃんとごめんなさいしてくれなきゃどきませんー」 「サーセンした」 「なにそれ適当すぎ!」 りんさんが俺の上でケラケラと笑う。楽しそうな彼女を見上げながら、ああ今日はデクさんがいないのだと分かった。 「ホスケは酷い奴だよ」 りんさんが俺の上に跨ったまま、腕を組んで頬を膨らませる。  彼女のセリフを頭の中でなぞってみた。本当に俺は、目も当てられないほど酷い奴なのかもしれない。 「…クズって?」 「あはは。うん、クズクズ!」 「どーしよーもねえ馬鹿で?」 「あはは!うん、ホスケは馬鹿!」 「…」 とーこさんに言われた言葉を思い出す。  そうだ、俺は救いようのない馬鹿だから、変われないのだ。どうすれば良いか分からないのは、自分の脳みそが足りていないから。 「…ホスケ?」 「……俺、なんも大事にできないんだって」 「なに?」 「大事にできないって最悪だよね」 「ホスケ?どしたの?」 「…最悪のクズだよね」 りんさんも頷くだろうか。頷いて「そうだね」と答えるのだろうか。  いっそ頷いてくれればいい。纏わりつく泥みたいなこの眠気の中で、そうすればきっと気絶したように眠れる気がした。 「ホスケ、かなしいの…?」 「……別に」 りんさんが上半身を屈め、俺に顔を近づける。なに、と聞く前に影が落ちて、唇にキスをされた。 「…なにしてんのあんた」 「ね、ホスケ…する?」 「は?」 「慰めてあげる。ね?」 「何言ってんの、どいてよ」 「だいじょぶ、私がホスケのこと元気にしてあげる」 りんさんはそう言いながら俺の頬や首に何度もキスをした。鎖骨に唇を這わせながら俺の股間に触れようとするので、さすがにその手を掴んで遮る。 「やめろって、マジでなんなんだよ」 「いいよ、ホスケはそのままゴロンしてて」 「なんで?デクさんは?」 その言葉で少しくらいは彼女の動きが止まるかと思ったが、そんなことはなかった。りんさんは薄ら笑いを浮かべながら人差し指を立てるだけだ。 「ホスケと私のないしょね?」  それから、りんさんの右手でしごかれ、しゃぶられ、何度かやめろと訴えたがそれに頷かれることはないまま、彼女は躊躇なく下半身の服を脱いで、そのままソファーの上、騎上位の体勢で俺たちはセックスをした。 「あ、あ、きもちぃ、ホスケ」  他の部屋で寝ている誰かを起こさないようりんさんが小さな声で喘ぐ。  眠くても胸糞が悪くても俺の性器はしっかり勃っていて、気持ちよさを細部まで味わおうとする。  勝手に血液が、一箇所へ集まろうとする。 「や、やん、ぁ、あん」 りんさんに動いてと強請られ、俺は彼女の両手首を一まとめにして雑に握り、下から突くように腰を動かした。すると彼女の体が魚みたいに俺の上で跳ねる。 「あっ、だめぇ、ぁ、それきもちぃ」 「…うん」 「や、や、ホスケ好き、好き、ずっとエッチしたかったの、あ、あん、あっ」 「…」 喘ぎ声の合間にりんさんが俺の名前を呼ぶ。  うわごとのように繰り返される三文字を聞きながら、俺はさっき返事をもらえなかった自分の言葉を何度も頭の中で繰り返していた。  ねえ、俺ってやっぱクズだよね。  返事はない。あるわけがない。  部屋に差す朝の光も俺の上でよがるりんさんも、まるで俺に無関心だ。 ■chapter.4-2  それから、りんさんにはちょくちょく誘われるようになった。声をかけられるのは決まってデクさんがいない時だ。  始めのうちは拒否していた。  人の目を盗んで体を触ってきたり誰もいない部屋でキスをしてきたりするので、その度にやめてとはっきり伝えた。  けれどりんさんはまるで聞かない。「えー」と不服そうな顔をして、それから頬を膨らませ俺の体に手を伸ばす。  そんなことが繰り返されるうち、段々と拒否するのが面倒くさくなってしまった。言ったところでこの人は聞いてくれないのだ、意味なんてない。  りんさんは手も口も上手かった。やたらと気持ち良くて、だから俺も冷静な思考回路をよく飛ばされた。  りんさんの中に入ると、いつも決まって生ぬるい泥沼の中に身を沈めているような気になる。  誰にどう話したって呆れられるだろう。必死で抜け出そうとしない自分だって同様に、もしかしたらこの人以上に、クソなのだ。  他の人が寝ている時や出払っている時を見計らって、りんさんと何度もセックスをした。  回数を重ねるうち、りんさんの性的嗜好も分かってきた。彼女は最中の自分達の姿を見るのが好きらしい。だからよく姿見がある部屋で誘われたし、一度だけだが洗面所で強請られたことだってある。  りんさんは鏡に映る自分の姿を見ながら気持ち良さそうにいつも喘いだ。俺を直接見ることはあまりなく、鏡越しにこちらの顔をドロリとした瞳で見つめる。  鏡の向こうのりんさんと目を合わすのがどうしてか嫌で、だからよく俯いて、前髪で視界を覆った。 「だめ、あっ、だめっまたイく、またイッちゃう」 「うん」 「やぁっ、きもちぃ、だめぇ見てるとイッちゃう」 「…うん」  以前一度だけ、何故鏡で見るのが好きなのかと尋ねたことがある。  りんさんはけろりとした調子で「かっこいい人にヤラれてる自分見ると興奮するんだ」と答えてのけた。直接顔を向け合うよりそちらの方が良いらしい。  俺はやっぱり欠片も理解できなくて、ただ「へー」と返しただけだった。 「私ね、ホスケの顔ホント好き」 「ふーん」 裸のまま布団に転がってぼんやり天井を見る。エアコンは付いているけど、寒くて布団の外に出られない。  今が何時なのか気になってフローリングの床に投げ出した自分のスマホへ手を伸ばしたが、腕が外気に触れた瞬間に寒さを感じて億劫になった。  もうどうでもいい。今が何時だろうと本当のところは構わないのだ。 「ホスケは?私の顔好き?」 りんさんが俺に体を擦り寄せながらそう言った。 「…ふつー」 「ねえ絶対言うと思った!」 りんさんが笑いながら布団の中で俺の脛を蹴る。「いて」と言うと「天罰じゃ」と、更に二回蹴られた。 「も〜やだどうしよ。ホスケの顔見てるだけでシたくなっちゃうんだけど最近」 「病気じゃないの」 「ね〜ひどい!」 りんさんが怒ったふりをしながらケタケタと笑う。  彼女の笑い声を聴きながら、俺はぼんやり瞼を下ろして緩やかにやって来る眠気を受け入れた。 「ホスケ」  その日は出勤日ではなかったから奥の部屋で一人ダラダラと寝ていた。  運動したわけでも頭を使ったわけでもないのに、とにかくやたらと眠い。起きる気もさらさら無いまま惰眠を繰り返し貪っていた、そんな日だった。 「起きれる?ホスケ」 誰かに頬を軽く叩かれ、俺は眉間にしわを寄せながらゆっくりと目を開ける。  眠っていた俺の枕元にしゃがみ込んでいたのはダカさんだった。  ダカさんは、俺が初めてこの部屋にやって来た日に行きの車で運転をしていた人だ。俺を紹介するクレさんに対して「こんな無愛想な奴にできるのか」と、そういえば言っていた。  あれからこの部屋で何回かは顔を合わせているが、特にお互いそれといった会話はなかったように思う。だから、ダカさんが俺を起こしてまで話しかけてくる理由がよく分からなかった。 「起きた?ちょっと一緒に来てもらっていい?」 ダカさんにそう言われ、俺は無言のまま上半身を起こす。  ダカさんは有無を言わせない空気を纏っていた。だから、今から一体どこに行くのかまるで見当もつかなかったが、俺は起こされたばかりでろくに働かない頭のまま、目的地も知らないまま小さく頷いた。  布団を脱いで起き上がると、ダカさんが「なんか食った?」と俺に尋ねた。 「…なんかって」 「いや、つーかいま腹ん中どう?空っぽ?」 「…はあ、まあ」 「そっか」 俺の答えにダカさんは頷いて「なら良かった」とこぼした。  …どうしてそんなことを聞かれたのか。だって、まさか今から一緒に飯を食いに行くわけでもないだろうに。ダカさんに尋ねようとしたが、きっと正確に答えてもらえはしないだろうと思い、やめた。  部屋のドアを開けるとリビングのソファでテレビを観るクレさんがいた。他には人が見当たらない。反対側の奥の部屋で一人か二人くらい寝ているのかもしれない。 「あれ?珍しい組み合わせじゃん。二人してどっか行くの?」 クレさんがこちらを振り向きながら軽く尋ねた。ダカさんは「んー」と生返事を返し、それから少し間を空けて「まあちょっと」とだけ答えた。 答える必要がないと思ったのか、それとも答えにくい質問だったのか。多分、後者なんだろう。だからダカさんはずっと、俺からの質問を受け付けないようこちらを一度も振り返らない。  クレさんは特に気にする様子もなく「いてらー」と手をヒラヒラさせ、またテレビを観始める。  俺の数歩前を歩くダカさんは玄関の外へ出るまで無言を貫いた。俺より一回り大きな背中を見つめながら、これから先に待ち構えている展開が楽しいものではないことを、ぼんやりと理解する。  お互いに適当な靴を履き、廊下に出る。エレベーターの前まで向かう途中で、ダカさんがこちらを振り返らないまま言った。 「不運だよなぁお前も」 ダカさんの呟きがダラリと俺の耳元まで届く。どういう意味か聞き返そうとする前にエレベーター前に到着し、ダカさんは下へ向かうボタンを押しながら俺を横目で見やった。 「…まぁ、確かにあいつが好きそうな顔してるとは思うけど」 「……」 一台のエレベーターが到着して扉が開く。ダカさんに少し遅れて俺も乗り込む。  俺たち二人だけを乗せたエレベーターが音も立てずに下へと滑り落ちていく。  あいつ、というのが誰のことなのかは考えなくても分かった。そして同時に、この先で俺を待っている人のことも。 「……」 ああだからさっき、腹の中のことを聞かれたのだ。  自分の腹を服の上から緩くさすり、俺は憂鬱な気持ちで下を向いた。  程なくしてエレベーターは最下階である地下駐車場で停まり、扉を開けた。 「こっち」 ダカさんが辺りを見回しながらある場所へ向かって歩き出す。  駐車場に人影はなく、ダカさんと俺の足音だけが場内にやけに響いて聞こえた。灰色のコンクリート一色で塗り固められた空間を、ただ黙って俺たちは進んだ。  しばらく歩くと奥の方、空いた駐車スペースの車止めに座り込んでいる男が一人いる。  やはりそこにいたのはデクさんだった。 「デク、連れてきた」 「お〜。悪いね」 ダカさんとそれだけ交わすとデクさんは立ち上がり、それから俺の目の前までやって来て静かに俺を見下ろした。 「なんで呼び出されたか分かる?」 「……」 黙っていると、笑いながら舌打ちをされた。舌打ちの音もここではよく響く。 「っあ〜お前のその顔マジで腹立つわ。初めて会った時から気に食わなかったんだよなぁ、舐め腐った目ぇしやがってよ」 デクさんが身をかがめ俺と目線を合わせる。目を逸らさないままでいると今度は頬に唾を吐きかけられた。 「っち…あ〜、ホントは顔ボコボコにしてやりてぇけど、顔やるとクレにすげえ怒られっからな」 デクさんは言いながら俺の服の首回り部分を掴んだ。 「だからこっちなー」 それからデクさんの右拳が俺の腹に真っ直ぐ入る。強い衝撃に視界が揺れて、それから腹部に猛烈な痛みが走った。  襟元部分をしっかり掴まれているから後方に身を引くこともできない。俺は小さく呻いた。 「人のモンに手ぇ出しちゃダメでしょ?んなことも分かんねぇのか?あ?」 また同じように腹を殴られ、開いた口からよだれが漏れた。よだれは灰色のコンクリートに落ちて跡を作る。その様が視界に入るのとほぼ同時に、今度は左手を離され肺の辺りを思い切り蹴られた。俺の体は後ろに倒れ込む。口の中の液体を吐き出してから咳き込むと肺が軋むような感覚がした。 「なに人の女とヤッてんだテメー、頭湧いてんのか?なめてんじゃねえよ殺すぞ!あぁ!?」 倒れた俺の腹をデクさんは何度も蹴った。  蹴られるたびに反動で口からよだれが飛び出して、何度目かのタイミングで胃液の味がした。 「溜まってんなら店の客とでもヤッとけや、このクソがぁ!」 デクさんの罵声が駐車場に響いて俺の呻きをかき消す。  何発食らったかもう分からない。段々呼吸も苦しくなって、浅く吸って吐くことしかできなくなった。 「今度またアイツに手ぇ出してみろ、ちんこ引っこ抜いてテメェのケツん中突っ込んでやるからな」 呼吸がうまくできない。痛みより苦しさが体を圧迫する。 「聞いてんのかクソがぁ!」 今度は顔を踏まれ、頬に何度も靴の裏を押し付けられた。振り下ろされる足の力は段々強くなる。  その途中で数歩離れた場所から傍観していたダカさんが「デクやめとけ」と言った。 「顔やったらクレに怒られるって。前もそうやって二人ぐらい仕事できなくさせただろ」 ダカさんの言葉にデクさんは足の動きを止め、頭をかきながら「そうだった」と答えた。 「っち…じゃー今回はこんなもんで。あんま舐めた態度取んなよ、次はマジで殺すぞ」 デクさんは俺の後頭部を爪先で蹴り、それから唾を吐いてエレベーターがある方へ歩き出した。デクさんの吐いた唾液が自分の頭に落ちる感触がした。  デクさんの後に続くようにダカさんもその場を離れようとしたが、何か俺に言い残したことがあるのか、傍にしゃがみ込んで俺の上に影を落とした。 「…だから言ったろ、りんとヤッたりすんなよって」 「……」 初日、そういえばそんなことを言われたなと、ふと思い出した。うまくいかない呼吸を浅く繰り返しながらぼんやりとダカさんを見上げる。 「…一発も返さねえのな、おまえ」 「……」 「まあ、おまえがそれでいいなら別にいいけど」 ダカさんはそう言って立ち上がり「さてと」と続けた。 「あんま戻ってこないようだったら様子見にまた来るわ。…じゃあな」 俺は地面に倒れうずくまったままダカさんの背中を見つめる。やがてその姿も見えなくなって、この場所には俺一人しかいなくなった。  手足の先が痺れている。内臓を何度も蹴られたせいだ、体がうまく動かせない。自力で起き上がって歩くには多分あと一時間くらいこうしていないと無理だろう。 「……」 自分の息を吸って吐く音を聞きながらゆっくり瞼を下ろした。  悔しさも怒りも湧かない。どうして湧かないのかは分からない。でも湧かないのだ、本当に。  呼吸がもうちょっと楽になったら少し眠って、それから起き上がればいい。誰かに見つかった時は適当に、酔い潰れて寝ていたとでも説明すれば変に疑われることもないだろう。  内臓と肺の痛みを意識しないようにして、瞼の裏の暗闇に身を投じる。  …へんなの。ひろの顔が、暗闇の中に浮かび上がった。どうしてこんな時に思い出すんだろう。意味わかんねえ、ほんと。  何故だか泣きたくなって…涙が出そうになってしまって、俺は追い払うように閉じる瞼に力を込めたのだ。 ■chapter.4-3 「最近そういやデクとりん来てないね。あたしがたまたますれ違ってるだけ?」  リビングのテーブルにある鍋の中を箸でつつきながらこずえさんが言った。  こずえさんの隣に座っているキーくんが、待ちきれない様子で「できた?」と尋ねる。 「ううん、まだ白菜全然煮えてない。ホスケは?二人に最近会った?」 「……や」 湯気が立ち上るのをぼんやり見ながら、俺はそう答えた。  駐車場の一件から数週間経った。  あの後目が覚めてから自力で部屋に戻り、それまで寝ていた布団へ、倒れこむようにしてまた横になった。  ちょうどこれから出勤だったらしいメゾさんと、メゾさんを送迎するため上着を羽織ったクレさんの二人とリビングですれ違ったが、どんな会話をしたかはあんまり覚えていない。  布団の中でズキズキと増す腹の痛みに耐えた。クレさんとメゾさんが出て行った後の部屋は他に人の気配がなく、しんとしていた。 「…いって…」 呟きが布団の中で溶ける。痛みが少し引いてやっと眠れるようになった頃、窓の向こうはもう薄っすら明るくなっていた。  それから、りんさんとデクさんに会う事はなくなった。  たまたまなのか、それともこの一件をきっかけに二人の間で何かあったのかは知らない。でもどちらとも顔を合わせることがなくなって、内心俺はほっとしていた。 「そろそろいいかなー。キーご飯よそってきてよ、三人分」 「ん!」 こずえさんに言われ、キーくんがキッチンの方へ向かう。あまり綺麗に整理されていない引き出しの中を開けて、茶碗を三つ取り出した。 「こずえどんくらい食うの?こんくらい?」 「もうちょっと入れて。うん、それくらい」 「ホスケは?こんくらい?」 キーくんが茶碗の中によそった米の量を俺に見せる。俺は首を横に振り、少し間を空けてから答えた。 「…いい、俺。米いらない」 「え!?」 キーくんは目を見開いて、ずいぶん大げさに驚いてみせた。 「今あんま腹減ってない。ごめんね」 スウェットのズボンの中に入っていた煙草を一本取り出して咥えようとすると、こずえさんに「ちょっと」とたしなめられた。 「ご飯の時にタバコ」 鋭い目で睨まれたので、俺は軽く頭を下げて煙草をテーブルの上に置く。 「キー、ホスケの茶碗ちょっとよそって」 「え、いい、いらない」 「いらないじゃないの、食べろって言ってんの」 「そうだそうだ!たまには食べとけホスケ!」 キーくんは俺が止めるのも無視して茶碗に米を半分ほどよそい、最後に自分の茶碗にもたっぷりと盛ってこちらへ戻ってきた。  俺の前に炊きたての白米が置かれる。  二人に苦言を溢そうとしたが、綺麗に揃った「いただきます」の声に負けてしまって、結局言えなかった。 「やば肉超うま、キーのお店にマジお礼言いたい」 「ほんとだ超うまー!ほらホスケもいっぱい食って。タダだから、タダ!」 キーくんに促され、鍋の中から肉を取って俺も食べた。 「…おお、ほんとだウマ」 溢れるように口から出た本音に、キーくんが嬉しそうに頷いた。 「だろ!この肉、廃棄で捨てられそうんなってたやつ!ホントは廃棄持って帰っちゃいけないんだけどさ、誰もいなかったから」 「コンビニで働いてると利点多いよね。ありがとね、キー」 「へへ、鍋すんの久々だね。こずえも作ってくれてありがと」 二人の会話を聞きながら肉と野菜を口に運ぶ。  キーくんがよそってくれた米も一緒に食べると、腹が減っていなかったというのは思い込みだったのかもしれないな、本当に美味いと感じた。  鍋の中身が空になり、こずえさんが食器と鍋を重ねて台所へ持っていく。キーくんが斜め隣で煙草を吸い始めたので俺も続いて火をつけた。 「うまかった、メッチャ食った」 キーくんが満足そうな顔をして呟く。 「うん」 「てっきり超少食なんだと思ってたけど、ホスケ意外と食べれんじゃん」 「…うん、米食ったの久々」 「そーなん?やっぱさー寒い時は鍋だよね。こずえの鍋美味しくない?」 「うん、おいしかった」 俺が頷くと、キーくんは台所にいるこずえさんの方へ振り返り「ホスケが鍋美味しかったって!」と言った。こずえさんは食器を洗いながら「どーもー」と返す。 煙草を吸いながら、手足の先が暖かくなっていることに気づいた。  暖かいものを食べたからなんだろう、だけどそんな当たり前なことに気づき、何故だか不思議な気分になる。  俺の意思とは関係なく血液は巡って、体は勝手に生きようとしている。 「なんか甘いの食べたくない?」 こずえさんが食器を片付け終わり、キーくんの隣に腰を下ろす。キーくんはこずえさんの発言に頷き賛同した。 「買ってきてあげよっか。何がいい?」 「あたしアレ。セブンのいちごチョコもち食べたい。三つ入ってるやつ」 「おっけーじゃあ煙草のついでに買ってくる」 二人の会話をそこまで聞いて、自分がすっかりご馳走になってしまっていることを改めて思い出した。  行くなら俺が行った方がいい。ついでになにか飲み物でも買って二人に渡そう。 「キーくん、俺行く」 「ん?」 煙草の火を消して立ち上がる。キーくんとこずえさんは並んで俺を見上げた。 「鍋ご馳走になったし、俺買ってくる」 「えー、マジで?いいの?」 「うん、キーくんハイライトのメンソだよね。あとなんだっけ、こずえさんの」 「いちごチョコもち」 「うん、買ってくる」 玄関まで向かう途中で、背中に「ありがとう」と声をかけられた。キーくんとこずえさんの台詞はよくこうやってユニゾンで重なる。  俺は二人のそういうところが、うまく言えないけれど何となく好きだ。  玄関脇に脱ぎ捨ててあった自分の上着を羽織って扉を開いた。  コンビニは歩いて数分のところにある。買うべきものを頭の中で復唱しながらコンビニまでの道を歩いていると、後ろから小走りで駆けてくる足音がした。 「ホスケ、やっぱあたしも行く」 振り返ると財布だけ手に持ったこずえさんがいた。 「…うす」 いいのに、と言おうとしたが俺の気持ちを汲み取ったのか、こずえさんは財布をポケットにしまいながら「自分で出すから」と俺より先に言った。 「俺出しますよ」 「いいって、そんな気遣わないでよ」 「ご馳走になったし」 「じゃあチョコもちだけ買って」 「…うす」 こずえさんにそう言われ、それ以上は食い下がらず素直に頷いた。こずえさんはいつも意思がはっきりしている印象がある。一度決めたことは譲らない人なのだ。 「あのさいつももっと食べなよ、アンタがご飯食べてるとこ見たことないもん」 「…食ってますよ適当に」 「米食べないと体もたないよ。少ししてから絶対ガタくるから」 「…はあ」 「あたしも食べない時期あったけど、体ボロボロになったもん。でも食べたら治ったから」 「…うす」 短い返事を繰り返していると「ほんとなんだって」と念を押された。どう答えて良いのか分からず、俺は曖昧に頷く。 「…りん、ちょっと心配だね。デクに軟禁とかされてるのかな」 こずえさんの言葉に一瞬足が止まった。  驚いて彼女の方を見ると、俺の反応が予想通りだったのか抑揚を変えることなく続きを語った。 「りんがツイッターの裏垢でさ、最近デク以外の人とヤッてるみたいなこと書いててさ。今までもそういうのなかったわけじゃないけど、でも今回のは結構長かったから」 「……」 「多分デクもりんの裏垢見てると思うんだよ、りんも見られてるの知ってて書いてるっぽいけど」 「…そうなんすか」 「あいつら二人ともすぐ浮気するし、そのくせ嫉妬深いからさ。お互いの当て付けみたいなことよくしてるし…周りにいる人いつも振り回してる」 こずえさんはそこまで言って、それから少し間を空けて俺の目をじっと見つめた。  ああ、今から聞かれることがこずえさんの知りたかった本題なんだろうと気づく。 「…相手ってアンタ?」 「……いや」 正直に答えるのは躊躇われたので嘘を吐いたが、俺の回答にこずえさんは「そう」と返すだけだった。  嘘は、あまり意味がなかったかもしれない。きっと見透かされている。 「…あんま関わんない方がいいよ。デクにボコられて顔の骨折った人とか見たし」 「……」 こずえさんは何かを思い出したのか、目を細めて黙り込みそれから小さな溜息を吐いた。 「てか正直あいつら全員あんま関わりたくないけど。早く金貯まんないかな、そしたらこの部屋ももう利用しないで済むし」 「…金、貯めてんすか」 「うん。キーと一緒に新しい部屋借りて住もうと思ってるんだけど、資金貯まるまでの間だけここで寝泊まりさせてもらってるんだよ。今はキーもあたしも家なしだからさ」 「へえ」 「クレもさぁ、あいつ悪どいから、寝に来るんだったらちゃんと家賃払えとか言ってきて。だからムカつくけどあたしとキーの二人分ってことで月三万渡してんの、今」 そんなの全く知らなかった。皆の関係性を突っ込んで聞いたことなどなかったからりんさんの話す内容は俺にとって初めて知ることばかりだ。 「みんな、家賃って払ってんすか」 「いや?クレが斡旋した所で今も働いてる人は払ってないんじゃない?あたしはさ、ほら、あいつが紹介してくれたとこだいぶ前に辞めてるから。だからまあ用無しなんじゃないの。用無しをタダで泊めてやる義理はないってことでしょ」 「…へえ」 「あいつにもあんまり関わりたくない。人のこと働きアリみたいにしか見てないし」 「…そうなんすか」 「キーにも深く関わんないでって言っといてるんだよね。まあなんかキーはメゾのことが好きみたいでさ、あいつには特別懐いてるっぽいけど。でもメゾは人畜無害なゲーオタだからあたしも割と好き」 こずえさんの物言いに少し笑ってしまった。言葉は悪いが、俺にもその感じはわかる。メゾさんは優しい。 「…分かるす」 「でしょ」 こずえさんがニッと笑って頷く。もうすぐコンビニに着くというところで、俺は思っていることをなんとなく吐露した。 「…こずえさんとキーくんも、なんか」 「ん?」 「…二人でよく奥の部屋で寝てるじゃないすか」 「ん?うん、それがなに?」 「あれ見てんの好き、俺」 こずえさんは驚いた顔をして「え」とこぼしてから、俺をまじまじと見つめた。 「アンタ好きとかそういうこと言うんだ、メチャクチャ意外」 「え、なんで」 「だっていつもぼーっとしてるだけじゃん。なんも考えてません感じてませんみたいなさ。えーメッチャ意外、超ビックリした」 こずえさんはその後も何度か「マジ意外」と繰り返していたが、コンビニに着いたところで「ありがと」と言って笑った。  コンビニではキーくんのタバコとこずえさんの食べたがっていた商品、それから二人へのジュースと適当に菓子を数個、あとは自分の煙草をカートンで買った。  会計の列、俺の後ろで化粧品と雑誌を持つこずえさんが「カートン買いかよ」と半笑いで言った。 部屋に戻るとキーくんはわざわざ玄関前まで出迎えてくれて、俺たちが持っていた荷物を受け取ってくれた。 「ホスケありがとな!」 「うん、そっちの袋キーくんのタバコと、あと飲み物とお菓子入ってる。もらって」 靴を脱ぎながら伝えるとキーくんが「えー!」と驚きながら嬉しそうに袋の中を覗いた。 「なんで?いーの!?」 「うん」 「やった!」 キーくんの笑った顔が好きだ。それにつられて一緒に笑うこずえさんの顔も。  今日は二人と一緒に鍋が食べれて良かった。  数週間前何度も蹴られた腹を服の上から緩くさする。まだ何個か青紫色の痣は皮膚の上から退かないが、それでも前よりはだいぶ薄くなったと思う。  放っておいても傷は治るし、体は勝手に生きようとする。きっと生きていればそんなのは当たり前のことなんだろう。だけど今の俺には随分と遠い事象のように感じられる。自分の体が他人事のようだった。  いつからこんな風に感じるようになったのか。よく分からない。 ■chapter.4-4  その日は長いことテーブルについてくれた客がいた。年齢は俺よりだいぶ上の少し太った女だった。  多くの行為を求められ、出来うる限りの注文に俺は応じた。シラフだと接客が難しくて、だから俺は客に頼んで何杯も酒を注文した。幸い、羽振りのいい客だったのでメニューを何度頼んでも嫌な顔をしなかった。酒を流し込んで煙草を吸って、頭の血管が何度も開いては締まる感覚を味わう。  テーブルの上は俺が空けたグラスと吸い殻まみれの灰皿で散らかった。  アルコールに浸った脳で客の要望に応える。服の中に手を入れ、強請られた場所に舌を落として、何回かイかせる。客が満足する頃には俺もずいぶん酒が回っていて、だいぶ足取りがふらついた。  少し早かったがその日はその接客を最後にして退勤した。  酒の飲み過ぎのせいで頭が痛い。こめかみを抑えながら、控え室のソファの上に投げ出していた自分の荷物を拾い上げる。煙草がもうない。帰りにコンビニで買わなきゃいけない。 「…あれ」 上着の下に置いていた財布の中身を見る。確かあと三万くらいは現金で持っていた筈だ。けれど、ない。札が一枚も入っていない。 「……」 財布じゃなくて服のポケットに入れていただろうかと思い、上着やズボンのポケットの中を確認してみるが、やはりない。どうしてだ。一昨日店長から手渡しで貰ったばかりなのに。  自分でも把握してないうちに金を使ってしまったのかとも思ったが、一昨日も昨日もタクシー以外で金を使った記憶がない。考えながら思い出す。おかしい、だって今日の出勤前にそういえば財布の中を確認した。カートンが買えるだけの金は入ってるなって思った筈なのだ。 「……マジか…」 多分、パクられた。カードや小銭はそのままだから、恐らく誰かが万札だけ抜き取ったんだろう。  腹が立って、でも数秒後に怒りは消えた。  それより煙草を買う金がないこと、タクシーで帰れないことへの焦りの方が思考を占拠した。誰かに借りられないかと考えたが、気前よく金を貸してくれるような仲の人は、この店にいない。メゾさんだったらタクシー代くらい貸してくれそうだけど、生憎彼は今日非番だ。  その場で立ち尽くし、どうしようかと考える。酒も回ってるせいかろくな案も思いつかず、ただ財布の中を見つめて数秒経った。  とりあえず、クレさんに送迎を頼めるかラインを送ってみようとスマホを取り出す。ラインを開いてクレさん宛に短い文を送信すると既読はすぐについた。回答はいつものように「ごめん今日は無理」という一文だった。  まいった、もう最悪この控え室で寝るしかないかもしれない。誰かが迎えに来てくれるまで動けないし、煙草も吸えない。  物凄く憂鬱になりながら、荷物をどかしてソファに腰掛けた時だ。クレさんから再びラインが飛んできた。 『ダカが車出せるって。あと30分くらいで行きまーす。』 意外な人の名前だったが、俺は素直にありがたいと思った。  「あざす」と短い返信をして、それからダカさんが到着するまでの数十分をソファに横たわりながら過ごした。  ダカさんとはラインの交換をしていなかったから、到着の連絡は登録していない番号からの着信だった。  通話ボタンを押すと「着いたわ」とダカさんの声が聞こえた。俺は荷物を雑に片手でまとめ、それから控え室を後にした。  店の裏の駐車場、黒のワゴン車の前で俺を待つダカさんがいた。軽く頭を下げると、親指で車に乗るよう指示される。  俺は助手席ではなく後部座席に座ることにした。まだ頭が痛いし体もだるい。少し楽な姿勢を取りたかったのだ。 「俺が来てちょっとビックリしただろ?」 車を発進させながらダカさんがそう言う。俺は小さく頷き、それから「あざす」と付け加えた。 「ここんとこずっとタクってるもんな?まあなんか可哀想になってよ」 「…どうも」 「あ、吸っていいよ。灰皿、背もたれんとこに引っ掛けてあんだろ」 ダカさんは前を向いたままそう言ったが、生憎煙草を一本も持ち合わせていない俺は「はあ」と、曖昧な返事をすることしかできなかった。 「あ?どうした?」 「…煙草切れてるんで」 「ふーん。じゃどっかコンビニ寄って買ってくか?」 「……」 無言のままでいると、ちょうど赤信号で車を停めたダカさんがこちらを振り返り「なに、どした?」と俺に問いかけた。 「…なんか、金が」 「ん?」 「パクられたみたいで」 それだけ答えると、ダカさんは「マジかよ」と言って少し笑った。信号が青に変わる。ダカさんは前に向き直りハンドルを握りながら続けた。 「災難だなあ、次給料貰えんのいつ?」 「一昨日もらったばっかなんで…来週の水曜くらいすかね」 「それまでなんも買えねえの?うわーキツイな」 「…そーすね…」 力なく頷く。窓の外で何度も通り過ぎていく街の灯りをぼんやり追いかけながら憂鬱に浸る。  煙草が吸いたい。切れている状態が一秒だって続くのが、本当に嫌なのだ。 「ふーん。じゃあ俺貸してやるわ」 ダカさんが前を向いたままそう言う。  意外だった。ダカさんからそんなことを提案してもらえるなんて思ってもいなかった。だってこの人に優しくしてもらう理由も義理も、特になかったからだ。 「…いんすか」 「いーよ?一万で足りる?」 「はい」 「じゃあコンビニ寄ろうぜ。そん時渡すわ。給料入ったら返してくれりゃいいからさ」 そうしてここから一番近いコンビニに車を停め、ダカさんは約束通り俺に一万円を裸のまま渡した。 「…あざす」 「おん」 ダカさんは特に気に留めない様子でコンビニの中へ入っていこうとする。俺も追いかけるようにしてその後に続き、店内の中を回らず真っ直ぐレジへ向かった。  ダカさんから貰った一万円を早速出してアメスピをカートンで買う。俺の会計が終わったのと同時にダカさんがレジに並んだ。店員が商品を一つ一つスキャンしていくのを待ちながら、彼は俺に声をかけた。 「外で一本吸ってこーぜ」 「…うす」 ダカさんの会計も終わり、一緒に店を出る。  軒先に設置された灰皿の傍に立ち、それから殆ど同時で俺たちは煙草に火をつけた。  数時間ぶりの味にゆっくり目を瞑る。頭の痛さやかったるさが、少しだけ遠のいたような気がした。 「ホスケはいつからアメスピ吸ってんの?」 ダカさんは白いケントの箱を服のポケットにしまいながら俺に尋ねた。 「…高校ん時から」 「ふーん?他の銘柄吸ったりとかはしなかったんだ?」 「や…親父のラークたまに隠れて吸ってましたけど」 俺がそう言うとダカさんは少し笑って何度か頷いた。 「ふーん。俺はさ、ちょっと前までマルボロ吸ってたんだけど客が置いてったの吸ってからなんかこっちのが良くなってよ」 ダカさんがニッと笑ってケントの箱を軽く振る。大して興味のある内容でもなかったが、俺は適当に相槌を入れながら会話を繋げた。 「…ふうん…客?ダカさんもクレさんから紹介された仕事とかやってんすか」 「やー。俺は一応、彫り師っすわ」 「…彫り師?」 「そう。まだまだ一人前とはいかねえけど。修行の身なんだわ」 ダカさんがたるんだジャージの裾を持ち上げてふくらはぎを晒す。その内側に黒い色で花のシルエットが大きく掘られていた。 「これ今年自分でやったんよな、練習がてら。割と上手くいったわ」 「……へえ、すごいすね」 「だは、だろ〜?」 ダカさんが気分良さそうに笑う。  俺は内心驚いていた。練習で自分の体に刺青を入れるものなのか。でも彫り師という職業について知っていることなど何もないから、案外それは普通のことなのかもしれない。 「…痛いんすか」 「ん〜…まあ痛いけど。いやでも思ったよりは痛くねえかな。いや、やっぱ場所による」 「…へえ」 「お前もやってみる?」 ダカさんがおもむろに煙草の火を消して俺の肩を乱暴に抱いた。突然のことだったので足がふらつき、体重をダカさんの体に預ける形になってしまった。 「俺、まだ男の客は彫ったことなくてよ。やってみたいんだよな」 「…や、俺は」 「このへんとかどう?かっこいいの入れてやるよ?」 ダカさんがそう言って俺の右手首を掴んで撫でる。首を横に振って言葉無く拒否したが、ダカさんが俺の肩を放すことはなかった。 「協力してくれよ〜?男で練習してえんだよ。俺を助けると思ってさ、な?」 「…や、でも」 「俺助けてやったべ?困ってる時はお互い様って言うべや?な?」  そのセリフを、どこで聞いたのか。  数秒考えて思い出した。ああそうだあの日、大学の喫煙所でクレさんが、同じように言っていた。  …よく分からない。助け合うとか手を差し伸べるとか。利用し合って、都合良く消費し合うことと何が違うんだろう。 「断ってもいいけど、だったら今すぐ一万返してくれる?俺もそんなお人好しじゃなくてよ」 笑うダカさんの、こちらにヒラヒラと向けた手のひらをぼんやり見つめる。  俺が一万を使ったのを確認してから話を持ちかけようと、初めから考えていたんだろう。そっか。  …どうでもいいや、もう。俺がどうでもいいと思うのだから、もういい。  もう、いい。 「…わかりました」 それから部屋に着くまでの車中、ダカさんが運転席で気分良さそうに歌う鼻歌を聴きながら、俺は静かに目を閉じた。  もういいんだ。空っぽのクソみたいなこの体がどうなろうと知ったこっちゃねえよ。  頭が痛い。かったるい。胸糞が悪い。俺の中に巡る感覚はもうずっと、そんなもんばっかだ。 ■chapter.4-5  翌日、どんな模様を入れるか聞かれ、ダカさんが試しにと見せてくれたスマホの画像検索一覧から適当なものを選んだ。  模様が決まったら転写シートというものを用意して彫る場所にアウトラインを写さなければいけないらしい。よく分からなかったので適当に頷く。  実際に彫る日は数日後に設定された。 「最高にかっこよくしてやっから」 「…はあ」 気のない返事をすると、ダカさんが片眉を上げてこちらを見た。 苦笑しながら「やる気あんのかよ」と言われたので、心の中でだけ「あるわけねーだろ」と返した。  そして数日後。  夕方頃まで寝ていた俺を待っていたダカさんは起きるなり俺を車に乗せ、刺青を彫るためのスタジオに連れて行った。  狭い部屋の中にポスターや雑誌、棚に並べられたインク、観葉植物やシルバーラックなどが雑然と置かれている。  地下を下るタイプの狭い音楽ライブハウスの雰囲気と似ているなとぼんやり思った。  器具を用意しながらダカさんが「心の準備はオッケー?」と尋ねてくる。 「はい」 「肝据わってんのなー。思ってるより痛ぇかもよ?」 「…」 「つって、まあデクに殴られてた時もシレッとしてたしな。痛いのには慣れてんのか」 そんな訳がない。気が遠くなるくらい痛かったに決まってる。思い出したら内臓がまた軋んでしまうくらい、鮮明に覚えてる。  肝が据わってるとかそういうことじゃない。あれだけ殴られているところを見ておいて何を言っているのかとも思ったが、反論する気も起きないまま俺は自分の手首をじっと見つめた。  刺青入れたら、親父怒るかな。ばあちゃん泣くかな。  二人の顔を遠くに思い浮かべて、だけどすぐにどうでも良くなってため息一つで思考を何処かへ飛ばした。  袖をまくる。やるならさっさとやって、早く終わる方がいい。 「よし、じゃあ早速やるか。よろしく」 ダカさんが俺の手首を撫でて、それから丁寧にカミソリで毛を剃る。その後除菌シートで拭かれ、刺青を入れる土台の準備は整ったようだった。  外気に触れてひんやりとする手首に何か液体が塗られ、そこへ刺青の模様が描かれた薄い紙を充てがわれた。しばらくして紙を剥がすと自分の手首に青い線で模様が描かれている。きちんと線が写されていることを確認してから、ダカさんが顔を近づけて器具の先を当てた。 「じゃあ彫るよ」 「…うす」 返事をするといよいよ器具の先端、針の部分が自分の肌に触れた。爪先で強くつままれたような痛みが手首に何度も走る。  見ていると余計痛みに意識が向いてしまう気がして、だから俺は壁に貼ってある一際大きなポスターに目をやった。  あれは、セックス・ピストルズのシドヴィシャスだ。白い煙を吐き出す彼の姿を見ながら、ああ煙草が吸いたいと思い立つ。 「…ダカさん」 「ん?」 「煙草吸ってもいい?」 「だはは、もう病気じゃんお前。これ終わるまで待てよ」 申し出は軽くあしらわれてしまった。  シドの吐く煙の形を見ながら、終わるのはいつなのだろうと俺は憂鬱な気持ちになる。動けねえし、痛えし、望んだ訳でもねえのに。  ただひたすら痛みを受け入れている自分がバカみたいに思えて、ああでもバカなのは元からだったと思い直した。  ダカさんから「終わったよ」と声をかけられた のはそれから三時間も後のことだった。  せいぜい一時間くらいかと思っていた俺は予想の三倍も長く拘束されたことに若干苛ついていた。 「…疲れた」 「ふざけんな俺の方が疲れたわ」 ダカさんが笑いながら俺の頭を軽くはたく。  上機嫌なダカさんを尻目に自分の右手首を見た。手の甲側に黒の単色で、俺が先日適当に選んだ線の先が四方に巻いていく蔦のような模様と、それから何故かバーコードのような模様が入っていた。 「…なんすかこれ」 「あ、それな。今日の日付のバーコード。記念に」 まるで煙草を買った時ついでで付いてくるライターみたいに、あっけらかんとした様子でダカさんはそう言った。  …聞いていない。勝手に刺青を追加で彫るこの人の神経をさすがに疑った。 「…なんすか、記念て」 「かっこいいべ?」 「聞いてねえけど」 「まあまあ。並んでた方がかっこいいじゃん。怒んなよ」 「……」 返す言葉が思い浮かばない。刺青を入れる時の常識とか流れなんて知らねえが、これが非常識だということは俺でも分かった。  …ああ、なめられてんだ。俺は完全に、この人に。 「…ふざけんなよ」 思ったまま呟くと、ダカさんは「はぁ?」と言って少し大袈裟に笑った。 「あのな、誰もお前の手首に刺青が一つ二つ入ったところで気にしねえから。だからお前も気にすんな?」 「……」 「誰も気にしてねえの。わかる?自意識過剰」 「……」 「はいこの話はおしまい。お疲れ様でした」 こんな好き勝手されて、好き放題やられて、はいそうですかって頷くとでも思ってんのか?俺の体はテメェの落書き帳じゃねえよ、なめてんじゃねえぞ。 「あとお前給料入ったら一万返せよ。俺も金欠だからさあ」 こんなクソみたいな思いをして、金を差し出さなきゃならない。なんでだよ。ふざけんなよ。  怒りや憤りが体の中で沸騰しかける。でも俺は噴きこぼれる前に火を消した。火を消す方が楽だともう知っているからだ。  …俺がなんも考えてねえバカだからだ。なんも考えずに借りた金をすぐ煙草に溶かした。  俺がどうしようもないバカだから、良いように利用されるしなめられる。だけどそんなのは当たり前のことだ、目の前に利用できるもんがあるなら何だって利用する。人は誰だってそうだ、俺だってそうする。  自分のバカを振り返って、誰に対してかも分からない言い訳を頭の中で垂れる。でもさ、だってさ、あの時はホント煙草吸いたかったんだもんしょうがねえじゃん。  …どーでもいーよ、もーほんと。どーでもいーわ。  さっきからずっと煙草を吸いたかったことを思い出してズボンのポケットから箱を取り出す。ダカさんから借りた金で買ったことは、今は忘れることにした。  手首に張り付くジリジリとした痛みは、煙草を何本吸っても消えないままだった。 ■chapter.4-6  数日間続いた手首の痛みはだいぶ引いた。  しばらくは刺青の回りが赤く腫れていたが、それも殆ど消えてきたと思う。  手首を見るたび視界に入る模様が本当は目障りだし、誰かに何かを言われるのが嫌だったので隠したかったが、皮膚を覆うとかぶれるかもしれないからとダカさんに言われたのでそのままにしておいた。  メゾさんとキーくんには気付かれてしまって「どうしたの?」と聞かれたけど、適当に説明するだけで深く追求されるようなことは結局なかった。  俺が俺をどうでもいいと思うように、周りも、俺のことなどどうでもいいようだった。ダカさんの言っていた通りだ。詮索されたり気にされるよりいい。ずっと楽だ。  ラインやメールの未読が毎日溜まっていく。アイコンの右上、受け取った数を示す数字はどれも三桁を超えていた。  もしかしたら知り合いからの連絡もいくつか紛れているのかもしれないけど、別にいい。どうでもいいし、開く気は起きない。 「ホスケくんタトゥー入れたの?」 接客中、何人かの客にそう聞かれた。俺は頷く。 「うん」 「え〜すごい、かっこいいね。どうして入れたの?」 「…何となく。似合う?」 「うん、似合ってる」 「ほんと?ありがとー」 そうやって俺が笑えば客も笑った。「何となく」で片付く程度のことなのだと、他人の反応を見て再認識する。  もう刺青のことなんかどうだっていい。それより財布の中の札が何枚残ってるか、残りの煙草が何箱あるかの方がよっぽど重要なことだ。 「ホスケ、ちょい手首見してみ」 刺青を彫った日から一週間ほどして、ダカさんに手首を確認された。  ダカさんは俺の手首の様子を確認すると数回頷き、それから俺に何の断りもなくスマホで写真を撮った。 「ブログに載っけとくわ。や〜良い出来。お客さん増えるといいなあ」 そう言って鼻歌混じりにダカさんがスマホを操作する。そうか、この人は始めからこれがしたかったのだ。  完成したブログには「◯月◯日、男性のお客様を彫らせていただきました。ご本人様希望のトライバルと、掘った日付のバーコードを入れさせていただきました。ご依頼やご質問などありましたらお気軽にどうぞ。お待ちしております。」と、やけに丁寧な文体で書かれていた。  客でもねえし希望した覚えもねえけどな。内心、唾を吐きかけてやりたくなったが、すぐにどうでもいいやと思い直して俺は何も言わずスマホを返した。  その夜、クレさんがテレビを観ながら思い出したように「そうだ」と言った。 「ツタヤ行きたい人いない?俺観たいやつあるの思い出した」 リビングに居合わせていたのはメゾさんとダカさん、それから窓に背中を預けて煙草を吸っていたキーくんと俺だった。  クレさんの隣で携帯ゲーム機を操作していたメゾさんが、画面から顔を上げて賛同する。 「あ、そういや俺もある。クレ行くなら一緒に行こっかな」 「じゃあそうしよ。ねえダカちゃ〜ん運転して〜」 クレさんの言葉にダカさんが短く笑った。 「駄賃は?」 「ダカの好きなAV借りてあげるよ、二本までね」 「は?やっす」 そう言いながら満更でもないのか、ダカさんは読んでいた漫画雑誌を閉じてゆっくりと立ち上がった。 「キーとホスケも行く?」 メゾさんが俺たちに声をかける。  キーくんは前にこずえさんが言っていた通りメゾさんのことをかなり慕っているみたいだった。そう聞かれた途端嬉しそうにして、煙草を灰皿に抑えつけてから「メゾさん行くなら行く!」と元気に答えた。 「ホスケも行こ?お前たまには仕事以外でも外出た方がいいよ」 気を利かせているつもりなのか、キーくんは俺の肩を軽く叩いてそう言った。 「…いい、俺」 「なんでぇ?たまにはシャバの空気吸わねえと」 キーくんのセリフにメゾさんが「あはは」と笑う。 「キーもそう言ってるしさ、一緒に行こうよホスケ。キーのバイク乗せてもらえばいいじゃん」 「…」 二人にそう言われ、上手く断れなくなってしまった。黙ったまま俯いているとキーくんが俺の腕を掴んで強引に体を引き上げる。  気乗りしなかったが、キーくんにバイクの後ろに乗るよう促され俺はそのまま言う通りにそこへ座った。 「…成人式ん時と一緒」 「うん?なに?」 俺のつぶやきに、メットのベルトを締めながらキーくんが聞き返す。 「キーくん強引だねっつったの」 俺の言葉にキーくんは明るく笑って「よく言われんだよな」と言った。  キーくんの笑った顔は好きだ。ずるいのだ、毒気を抜かれてしまう。少しつられて俺も笑った。  バイクの後ろは、やっぱり気持ち良かった。最近はなんの感情も湧かなかったから、何かに対してこんな風に感じるのは凄く久し振りだなと思った。  ダカさんが運転する車の後ろをバイクで追いかける。十五分ほど走った後、店の駐車場に到着したが俺は来たことを心底後悔していた。  だってクレさんの部屋から近い店は他にもあるのに、どうして、よりにもよって、俺が昔働いていた店舗が選ばれたのだろう。  車から降りたメゾさんが「なんでわざわざこっちまで来たの?」とダカさんに尋ねていたので、俺も会話を横から聞く。 「あっちの店舗のAVの棚は全部確認済みだから」 ダカさんの回答にメゾさんは目を見開き、クレさんはおかしそうに笑った。 「あっはっは!さすがっすわ〜!」 「え〜…ダカ…ちょっと引くわ…」 「なんでだよ。普通チェックすんだろラインナップを」 「しないわ〜…だって動画とかで充分じゃん…俺、店のエロビコーナーなんて入ったことないよ」 「メゾなんも分かってねえわ。やっぱエロは盤じゃなきゃ駄目なんだよ、動画じゃ本気で乗れねえんだよ」 「わかんないわ〜…わ〜久々に他人に引いてるわ俺…」 「だってテレビの大画面で観てえじゃん、爆音で」 「ないわ〜…」 「あっはっは!」 そうして三人は楽しそうに会話をしながら店内へと続く自動ドアを潜ってしまった。  キーくんと俺もその後に続く。すこぶる嫌だったが、誰かに何かを気付かれるのももっと嫌だったので、俺も何食わぬ顔で店内へと入った。  入った瞬間、棚の配置や店の構図に懐かしさを感じた。  レイアウトの細かい部分はかなり変わっているが、それでも俺はこの場所を知ってる。とてもよく、知っている。  …高校生の頃、あの時ここで沢山の時間を過ごした。思い出が水のように流れ出そうになってしまって、俺は慌ててかぶりを振り、それを阻止した。 「ホスケどうかした?」 横にいたキーくんに不思議そうな顔をされてしまったので、悟られないようゆっくりと首を横に振って「眠いだけ」と嘘を吐いておく。 「寝る寝る大魔神だなお前は」 「なにそれ」 「そのまんまだよ、だって寝るか煙草吸うかしかしてないじゃん?」 「…そー?」 適当に会話をしながら店内を進む。  洋楽のメタルやパンクのコーナーが見えたので、キーくんに一言断りを入れて俺は一人その棚へ向かった。  こうやってCDを物色するなんていつ振りだろう。  昔は学校帰り、数日おきにレコード店や中古店を回って欲しいCDを探していたなと思い返す。  実家のCDラックには俺と親父のCDが数百枚並んでる。あれもこれも持ってる。擦り切れるほど聴いた。記憶をなぞりながら棚に並んだCDの背表紙を眺めた。  昔よく聴いていたバンドの、まだ見たことのない新譜のアルバムが並んでいることに気づいた。手に取ってケース裏面の曲目を見る。タイトルを見ているだけで少しワクワクした。聴いてみたくなった。 「……」 自分で少し驚いた。俺の中にはまだ音楽を聴きたいなんて気持ちが残っているのかと。いつも感情の火を消すばかりで、俺の中にはもうなんの火も灯ってなくて、燃えた後に残る灰しか残ってないのかと思ってた。  …もしかしたら、そうじゃないのかもしれない。  見ていたらいろんな感情が次から次へと蘇って、棚を物色するのをやめられなくなった。  これも、ああこれも。  このバンドアルバム出してたんだ。タイトルかっこいいな、どんな曲かな、聴いてみたいな。  俺は四枚のCDを棚から抜いて右手に掴んだ。財布の中に眠ってた会員カードを確認して、レジへ向かう。  俺が知ってる店員は誰もいなかった。今日たまたまいないだけかもしれないが、もう三年くらい前のことだ、あの時のメンバーは一人もいないのかもしれない。  レジにカードと商品を出す。有効期限が切れていたのでカードの更新料を払った。カードの裏面の日付は四年前だった。いつの間にこんなに、時が経っていたんだろう。  CDを借り終え店内をうろついていると、邦画コーナーで商品を選んでるキーくんとメゾさんを見つけた。もう店の中に用がない俺は二人に声をかけ、外で待つ旨を伝えた。 「え〜俺ら時間かかりそう」 「いーよ、煙草吸って待ってる」 「ホント?じゃあさバイクんとこにこのメット置いといてくれる?」 「うん」 メットを一つ受け取って(ちなみに俺のぶんのメットはバイクの座席の下に閉まってある)俺はその場を後にしようとしたが、キーくんはなにか閃いたのか表情をパッと明るくさせて俺を呼び止めた。 「ホスケ待ってる間暇だったら乗ってていいよ!」 突然の提案に俺は少し驚いてキーくんの方を見た。 「…俺、免許持ってないよ」 キーくんは、でも笑って続けた。 「店の周りちょっと走るくらいだったら平気じゃね?後ろ気持ちいいっつってたじゃん。運転したらもっと気持ちいーから!おいでよ、乗り方教えちゃる!」 メゾさんが隣で「いけないんだ〜」と言ったが、ふざけ半分の笑顔だった。無免でバイクに跨ることなんて、大した問題ではないのかもしれない。 「ホスケがもっとバイク好きになってくれたら嬉しいしさ。な!おいでよ」 キーくんは相変わらず強引に俺の腕を引っ張った。何か言う前にキーくんに連れられ、結局俺は店の外に停めてあるバイクの元まで連れられた。 「鍵回してエンジンかけるでしょ、ここ回してさ、そしたらもう後は走るから」 キーくんが俺の前で実演しながら教える。 「ホスケ運転上手そうだし、多分すぐ慣れるよ」 「…そー?」 「うん、免許取ったら一緒にツーリングしてえなー。俺新しいの買うからさ、そしたらホスケこれ乗っていーよ!オンボロだからちょっとアレかもしんないけどさ、でもいつでも貸すし」 キーくんはバイクから降りて俺に鍵とメットを渡すと、催促するように目を輝かせて俺を見た。  断る理由もなかったし、俺も乗ってみたい気持ちが少しあったのでそのままシートに跨ってみる。 「いいね、かっこいい!」 「キーくんのがかっこいいよ」 「やめろよ照れるじゃんか」 「ここ、こうすればいいの?」 「そうそう」 「…走ってみていい?」 キーくんは元気に頷いて「やってみ!」と言った。メットを被ってベルトを締め、グリップをしっかり握って、いよいよエンジンをかける。  けたたましい音が鳴ってマフラーから白い煙が吐き出された。 「最初はゆっくりな!」 「うん」 「事故んなよ!なんかあったらすぐスピード落として!くどいくらい後方確認な!」 「うん、わかった」 「うっしゃ、いってら!」 キーくんに背中を押すように叩かれ、俺は地面から足を離した。  エンジン音と一緒に、バイクが走り出す。グリップを両方とも強く握る。  駐車場を出て、右に行くと駅前の大通りに出てしまうので、おぼつかないハンドル操作で左へ曲がる。  最初はおっかなびっくりだったが、幸い車通りも少なく前後に車が全くいない状態で直線を長く走れた。体が少しずつ感覚を知っていく。全身に風がぶつかってくる。エンジンと風の音以外、何も聞こえない。  次の曲がり角をまた左折する。キーくんに言われた通りスピードを落として、後ろを確認してからゆっくり、徐々にスピードを上げた。  気持ち良い。純粋にそう思った。俺が風を切ってる。俺の体が今、全速力で駆けてる。  それから二回左折したらまた店の駐車場入り口まで戻った。俺はもう一周したくてまたバイクを走らせた。今度はさっきより少しだけ速度を上げて、風にぶつかりに行った。  ああ、気持ちいい。体中の汚いものをぶちまけて、振り落として、俺が空っぽになっていくみたいだ。軽い。  体が?頭が?わからない、でも俺は今確かに飛べそうなくらい軽いのだ。このまま飛べないかな。飛べちゃうんじゃないの?あの道の先が例えば断崖絶壁だったとしてさ、そのままアクセル全開で走り抜けたら、俺、飛べるよきっと。  そんな、妙な考えが浮かんでくるくらい爽快だった。気持ちいい、もっとずっと走ってたい。もう少し遠くまで走ってみたくて、店の周りを二周し終えた後、俺は一つ目の左折するべき道を直進した。  空っぽで身軽になった俺は、自分の中に渦巻いてたヘドロみたいなモンを道端にボトボト落として、ひたすら駆けてく。どこまでも駆けてく。  もう何も追ってこない。何も、追いついてなどこれない。どうしてこんなに心が安らぐんだろう。どうして軽くなることがこんなに、気持ちいいんだろう。  ……ああそっか、今やっと気付いた。俺、自分から逃げたいんだ。見捨てて、置き去りにして、どこまでも逃げたい。  追いかけてこれない所まで、逃げて、逃げて、逃げて、ずっと。 「…そっかあ」 呟いた言葉は風の音にかき消されて、自分の耳にさえ届かない。それが少し寂しくて、でも同時にホッとした。  夜の中をすっからかんで走る。  逃げたいんだ俺。死ぬとか生きるとかそーゆーことじゃなくてさ、戦うとか戦わないとかでもなくて。  ただ逃げて、なんにもない場所で倒れ込んで、全部放り捨てて、眠っちゃいたい。  頼むからもうなんも追っかけてこないで。お願い。なんもしたくないんだよ、このまま空っぽになりたいんだよ。  …なんでかな、はなからなんもしてないのにね。もう、疲れちゃった。 ■chapter.4-7  初めてバイクを運転したあの日から、俺はちょくちょくキーくんからバイクを借りて外を走るようになっていた。  バイクに乗りたがる俺の姿が嬉しいのか、キーくんはいつも快く鍵を渡してくれた。 「馬鹿じゃないの、やめなよ」 居合わせている時決まってそう言うのはこずえさんだった。心底嫌そうな顔をして彼女はいつも溜息をつく。 「無免で乗んなし。迷惑だし」 「…誰にも迷惑かけてねーけど」 「かけてんの。なんかあってからじゃ遅いの。え、わかるよね?わかんないわけ?」 「こずえさんうっさい」 はいはい黙って聞いているのも嫌で言い返したら、結構マジで怒らせてしまった。こずえさんがドスの効いた声で「はぁ?」と言う。 「 あの、でもこずえホラ、ホスケ運転メッチャ上手いんだってマジで」 キーくんが俺たちの間に入って、なんとか場を和ませようとしたけど無駄だった。 「あんたがそういうこと言うからつけ上がるんだよこの馬鹿が」 「え〜でもホスケ、金貯まったら免許取るつもりだべ?な?」 「うん」 「ほら」 「ほらじゃないの。取るまで乗んなっつってんの」 「指図すんなよ」 「はぁ?」 早く乗りに行きたいから、それを邪魔するこずえさんへの言葉が乱暴になる。  俺は舌打ちをして強引に話を終わらせた。 「もーいーから。じゃーね」 キーくんから借りた鍵と下駄箱の上に置いてあるメットを手にして、部屋を後にする。  扉を閉める寸前にこずえさんがなにか言う声がしたが、振り返らなかった。  地下駐車場に停めてあるバイクの鍵を回して、俺はシートに跨る。  よく響くエンジン音が今日も俺の気分を高揚させた。目的地は別にない。空っぽんなるまで、走る。  最初のうちは狭い範囲内を周回するように走ってたけど、最近は二十キロくらい先まで行ってる。いろんな道を通って、頭の中で書いた適当な地図が繋がっていくのがちょっと楽しかった。  途中のコンビニで寄せて、軒先に立ってる灰皿の元で煙草を吸ったりする。  そういえばこの前、洋服を数着取りに行くため久し振りに自分の家に寄った。  バイクで行けば数十分で着いてしまうことに少し面食らった。もっとずっと遠い場所のような気がしていたのに、道はつながっていて、いつでも行けてしまう距離にある。変わらないまま、ずっとそこにある。  普段は全然使わないキーケースを数ヶ月ぶりに手に取って、玄関のドアの鍵を開ける。  昔から親父は家を開けがちだった。  親父は大工をやっていて、現場が遠い時はよく泊まり込みもしてたから、俺は高校の時からこの家には一人でいることが多かった。  適当に食ってテレビ観て音楽聴いて、適当に寝る。親父も適当でまあまあだらしない。だからお互いの部屋はいつも汚かったし、それをたまにやって来て勝手に掃除してくれるばあちゃんには毎回怒られていた。  親父とは結構ウマが合ってたと思う。口うるさく言ってこないとこも楽で好きだったし、たまに一緒になった夜は外へ飯を食いに誘ってくれたりもした。  いい距離で見守ってくれてたのかもしれないと今になって思う。見守りながら、信頼してくれていた。  俺が高校卒業した後の進路で進学するか働くかで悩んでた時「ちゃんと考えろ」と言って、きっと忙しいだろうに沢山時間を取って、何度も話し合いをした。  特に勉強したいという強い気持ちもなかったから俺は働こうと思ってることを伝えた。  だけどいつもはあんまり口を挟んでこない親父が、その時だけは真面目な顔をして俺に言ったのだ。 「お前は俺と違って頭いいんだから、大学行っとけ。金なら心配いらないから」 驚いた。てっきり「お前がしたいようにしろよ」と言われると思ってたからだ。  親父はテーブルの向かい側、腕組みをしながら俺をじっと見つめていた。  進路に対して投げやりになってたとかそういう訳じゃない。そうじゃないけど、親父のその目を見て、俺より親父の方が俺の進路のことを真剣に考えているんだと知った。 「穂輔。俺はな、高卒でそのまま今の仕事就いたんだけどよ。…まあ、最初の五年くらいは大変だったよ。頭も馬鹿だったし、始めは仕事もろくにできねぇガキだった。学歴でナメられることも沢山あったよ。後から入ってきた大卒の奴らに色々言われたこともあった。理不尽な思いもそれなりにした。辞めてやろうって何度も思ったし、あの時のこと思い出すと今でも結構、実は胸糞悪い」  親父の昔の話を聞いたのはそれが初めてだった。俺はあの時テーブルの向かい側で、どんな顔をしながら親父の話を聞いていたんだろう。 「…働き先の選択肢は、殆どなかった。元から鳶やりたくなかった訳じゃねえけど、それでもお袋と親父には反対されたよ。大学行けって何回言われたか分からねえ。その時は鬱陶しいとしか思ってなかったけど、今はあの時の両親の気持ちがよく分かるよ。俺が、他には選びようがねえ選択肢でもなんとか平気だったのは、本当にたまたまだ。もしかしたらどうしてもダメで、ダメだって気付いた時には遅くて、路頭に迷って野垂れ死んでた可能性だってあったんだ。…そういう奴も実際いたよ。仕事辞めてった奴らの何人かが、今どうしようもねえ生活してるのも知ってる」 「……」 「穂輔、お前にはよ。働きたいって思った時、沢山ある選択肢の中から好きなもんを選べる状況でいてほしいんだよ。選んだそれがどうしてもダメで辞めたくなった時も、他に代替が効く方がいい。大卒の資格は、あった方がいい。…持っててほしいんだよ、お前には」 真剣さに困って、なんと言えばいいか分からなかった。軽く笑って茶化すこともできなかった。たまに顔を合わせても大概は酔っ払いながら窓を開けて煙草を吸って、気分良さそうに鼻歌を歌ってる。そんな親父とは別人のようだった。 「…迷ってんなら行っとけ。頼む」 それから俺は、行きたいと思える大学を探して、それなりに勉強も頑張って、第一志望のところに合格することができた。  合格したことを伝えた時、学校の先生より誰より、一番に喜んでくれた。頭をグシャグシャに撫でられて、何度も背中を叩かれて、おめでとうって、よくやったって笑って言ってくれた。  照れ臭かったけど嬉しかった。この人に良い報告が出来て良かったって、四年後も同じように喜ばせてやろうって、思ってた。  傷が沢山ついた手や腕が、汚れてくたびれた作業服姿が、言ったことはなかったけど俺は結構好きだった。  かっこいい人だなと思ってた。男手一つで育ててくれた。  頑張って金貯めて、俺が十五になった時に自分たちが住むための一戸建ても建ててくれて、酒と煙草はすごい好きだったけどギャンブルとかはしてなくて、いい加減な人だけど、真っ当だった。  いつか俺もこーゆー大人になれんのかな、だったらいいなって、思ってたんだ。数年前までは。  今はもう全然思わない。俺は親父とは違うのだとはっきり分かったからだ。  俺はそういう人間じゃない。親父みたいになれない。ただただ低い方へ流れて、なにかを頑張ることもなく、目の前のものを消費して、浪費して、息を吸って吐くことしかしない。  俺の体の中には親父の遺伝子が殆どないんだろう。クソみたいな、あっちの遺伝子ばっかりきっと受け継いだ。  悲しがっても悔しがっても仕方がない。それはもう、生まれた時から決まってたことだ。足掻いたって変えられない。もう、足掻く気力なんて微塵もない。事実を受け入れて諦めることしか、俺ができることはない。  ガッカリさせただろうと思う。期待に応えらんなかった。親父、だめだったよ俺。やっぱだめなんだよ俺。  誰もいない家の中は何も変わらない。相変わらずリビングだけは片付いてて、奥にある俺の部屋は汚いまんまだった。  散らかった洋服箪笥の中から数着取り出して、部屋にあったバッグの中に突っ込む。長居する気はもちろんなかった。用は済んだのでまた家を出ようとする。  不運だと思った。鉢合わせる訳ないと思ってた親父が、そのタイミングで家に帰ってきたからだ。 「…穂輔」 「……」 親父と顔を合わせたのはいつ振りのことだったか、もう思い出せなかった。相変わらず赤ラーを咥えていた親父が、心底驚いた様子で俺を見ていた。 「……」 「…服取りに来ただけ。お邪魔しました」 「は?おい、ちょっと待て」 「急いでるから」 親父が何かを言う前に、逃げるように玄関を出た。ヘルメットを着ける時間が惜しくて、腕に引っ掛けたままバイクに跨る。 「おい、穂輔!」 何度か名前を呼ばれたが、俺は振り返らずにバイクを走らせた。  バイクで来てて良かった。もしも走って逃げてたらだめだったかもしれない、追いつかれていたかもしれない。  親父と会ったのはそれが最後だった。スマホを見れば着信やメール受信の記録はきっとあるんだろうけど、それも確認していない。  最悪だ、会いたくなかった。どうしてあの日あのタイミングで家に行ってしまったんだろう。  それから数日間、俺はずっと後悔していた。もう二度と会いたくない。顔を見せたくない。もう家には絶対に行かない。  俺は舌打ちしながら、何重にも蓋をしてもう二度と開かないようにその日のことを思い返さないようにした。 「……」 …だからさあ、思い返さないようにって、思ってたじゃん。なにしてんだよ馬鹿、せっかく蓋したのに。  やめよ、考えたって意味ないんだから。俺は小さくかぶりを振って思考を止める。  今日は二十時から出勤だからそろそろ帰らなきゃいけない。やだな。サボってこのままずっと走っていたい。だけど金を作らなきゃタバコが買えないから、俺は仕方なくバイクに跨って戻るための道を走った。  部屋に戻るとまたこずえさんに嫌な顔をされて、キーくんがその隣で「まあまあ」と言っていた。話しかけてもきっと余計怒らせるだろうからこずえさんのことは無視した。キーくんに「ありがと」と言って鍵を返す。 「ホスケ〜早く着替えな〜。置いてっちゃうぞ〜」 今日はメゾさんと同じ入り時間らしい。既にスーツに着替えたメゾさんが、ワックスを髪につけながら俺に言った。 「うす」 適当に支度を済ませてメゾさんの後を追う。「クレ、下で待っててくれてるって。行こ」 メゾさんの香水の匂いがして気が滅入った。  職場に行くのがかったるい。働くのが、面倒くさい。アルコールとヤニが混じり合った息の匂いや、早口で喋る客の声を自動的に思い出す。今日も長く感じるんだろう。  まだ職場に着いてもいないのに、俺はもう一日が終わって帰る瞬間が待ち遠しかった。  マンション前の道路に車を停めていたクレさんが俺たちを乗せる。違う誰かの送迎をしてきたところなんだろう。クレさんは欠伸をしてから少し疲れた様子で「行きますか」と言った。  車の中で髪をセットしていると、メゾさんがスマホをいじりながら「ホスケ今日はどこまで行ってきたの?」と尋ねてきた。 「××の先んとこ」 「あー◯◯中学がある方?」 「そうっす」 「へ〜。随分遠くまで行ったな〜」 俺とメゾさんの会話に、信号待ちで暇そうにしていたクレさんが加わってきた。 「ホスケ最近乗り回してるもんねえ。なに、バイクにハマった?」 「……はあ、まあ」 「たはは。なんかいいじゃないっすか、遅咲きの青春みたいで」 笑いながらそう言うクレさんに、心の中で「そんなんじゃねえよ」と返す。  ほんと、そんなんじゃない。もっと、なんの実りもなくて、無意味で、しょーもない。  自分から逃げたいからバイク乗ってるなんて、誰に言っても理解してもらえないだろう。自分にだってよくわからないのだ、人にうまく説明できるわけない。  次はいつ乗れるかな。明日はキーくん仕事だって言ってたし、多分借りるのは無理だろう。  自分の欲しいな。金が溜まる気配はないけど出来たらいつか買いたい。あ、でもその前に免許取らなきゃ本体買えないか。免許取るのっていくらすんのかな。なに我慢したら金は貯まるんだろう。だって煙草は、無理に決まってるし。 「……気ぃ遠くなりそう」 こぼした言葉にメゾさんが「ん?」と聞き返したけど、話す気力が湧かなくて「なんでもない」とだけ返した。  仕事からタクシーで戻ったある日、リビングのテーブルを囲んでクレさん、ダカさん、メゾさんの三人が酒盛りをしていた。  その日もガンガン酒を飲んで数えきれないくらい煙草の箱を開けていた俺は、さっさと眠りたくて仕方なくて、三人を素通りしようとした。 「でね車止めても泣き止まないからね俺言ってあげたの。指名取りたかったらもっと必死んなんなよって。どっかに甘えが出てんだよ客もそれ感じてるから指名しないんだよって」 「ふぅん。ねえダカそっちの袋の中に焼き鳥入ってなかったっけ」 「そしたらもっと泣くわけ。もう俺も面倒んなっちゃってさ。まあ一回トップ取っちゃったことある子だから落ちてく自分が許せないんだろうけどね」 「焼き鳥ぃ?あーこれか、え美味そう一本ちょうだいよ」 「ぶっちゃけ同じ子がトップに居座り続けんのも不健康だと思うんだよね俺はさ。適度に入れ替わってって循環してかないと。客だって変わってくんだからさ」 「うんうんそっか。あ、や〜ダカ待って、ハラミはダメ。ネギマなら食べてもいいよ」 「あのさぁ二人とも聞いてる?」 「聞いてるよ〜」 「あー俺はあんま聞いてねえわ」 酔うと饒舌になるらしい。くだを巻くように話すクレさんに二人が適当な相槌を入れ、それに文句を垂れながらクレさんが酒を煽った。  テーブルの上は三人が散らかした空き瓶と空き缶、惣菜の空容器、吸い殻が山盛りの灰皿でいっぱいだった。多分数時間くらい前から飲んでるんだろう。  メゾさんはあまり分からないが、クレさんとダカさんは結構顔が赤いし、瞼も重たそうだ。  三人を尻目にスーツの上着を脱いで手前の部屋、物置のようなクローゼット内に適当に引っ掛ける。  早く寝たい。疲れた。ここに来たばかりの頃より確実に体力や気力が減っていると思う。体の中にガソリンが一滴も残ってないような感覚だった。 「ねえおかわりは〜?」 「え、嘘もうねえじゃん。俺もまだ飲みたいんだけど」 「あれ?もう一本なかったっけ?」 「ねえよお前がそっちのは二本とも空けたんだろうが」 「え〜もう…じゃあ誰か買ってきてよ〜」 「あはは誰かって誰っすか。じゃあついでに××買ってきてよ、あれ飲みたい俺」 「馬鹿じゃねえの、それコンビニ置いてねえから。てか誰かマジで行くんなら煙草も買ってきてよ」 酒が足りなくなったのか、三人は買い出しに行く役を押し付けあっているようだった。まだ飲む気なんだ。きっと明日は一日中、全員死んだように寝倒すつもりなんだろう。 「これあっちのスーパーにしかないんだっけ?あははやば〜詰んだ〜」 メゾさんがヘラヘラ笑いながら言う。ちょうどそれと同じタイミングで、ダカさんがちらりとこちらを振り返った。 「…あのさ?ホスケくん」 「……なんすか」 「わり、おつかい行ってきてくんない?ちょっと行ったとこに二十四時間のスーパーあるじゃん」 予想通りのダカさんの言葉に舌打ちが出そうになり、すんでのところで我慢した。 そのスーパーは歩いて行こうと思えるような距離じゃない。酒とか重たいもんを買いに行くなら尚更、徒歩以外の移動手段が必要だ。  つまりこの人は仕事あがりのこの状態の俺に、バイクに乗って買ってこいと要は言ってるんだ。  行くわけねえだろ。なんでこんな仕事終わりの死にそうな体で、てめーらの為に買い出しに行かなきゃいけねえんだよ。 「いや〜ダカ、さすがにそれは人としてどうよ?」 メゾさんがたしなめるように言うが、クレさんは笑って「いいじゃんいいじゃん」と合いの手を入れた。しゃっくりをする度に「うぃっ」と声がこぼれるのがやけにイラつく。 「ホスケの大好きなバイクでさ、夜のツーリングがてらお買い物行ってきてよ」 「…や、俺も、酒回ってるんで」 「うそ〜ちゃんと立って歩けてるじゃん。見てよ俺ら、もう立てないから。ベロンベロンよ?」 クレさんが顔の前で手を合わせてお願いのポーズをする。ダカさんもそれに続いて「おなしゃーす」と言いながら頭を下げてくるので、俺はいよいよ本気で腹が立った。 「やめたれよ〜さすがにお前らひどいよ〜」 メゾさんの言葉で二人が引き下がるわけもなく、クレさんとダカさんは買ってきてほしいものをそれぞれ口にした。 「ホスケくんお願い。君だけが頼りだ。キーもバイク置いたまま友達んとこ遊び行ってるしさ。ね、頼む」 「…」 どーゆー神経してんのとは、今更、もう思わない。  酒が回った奴をバイクに乗せて買い出しに行かせることなんて、この連中からしたら大したことじゃないんだろう。罪悪感とかそんなもん、カケラだってある訳ない。遠慮だってない。 「ほら、お釣りは全部お駄賃にしていいからさ。これでアメスピちゃんも買っておいで」 クレさんが財布を取り出して、その中から万札を抜き取る。人差し指と中指に挟まれたそれが、自分に差し出される。  ヘラヘラ笑うクレさんにも、別に何にも思わない。目の前に利用できるもんがあったらそれに手を伸ばすのは、だって、当たり前のことだから。  俺は黙ったまま受け取って、クレさんとダカさんを一瞥した。 「…足りないんだけど」 「えぇ〜ん、うっそぉ」 「カートン二つ買わしてよ。いーでしょそんくらい」 いいように利用されてんだから、こっちだって都合よく消費する。俺の言葉にダカさんが「あぁ?」と苛立った声を出したが、メゾさんがそれをいなして「いいってホスケ」と言った。 「ごめんねみんな酔っ払っててさ。相手しなくていいよ」 「別にいーすよ、俺も煙草買う金欲しかったし。買ってくるからあと五千円出して」 受け取った一万をポケットに入れて、空になった手をクレさんに突き出す。クレさんは短い舌打ちをしてから、だけどその後すぐに笑ってみせた。 「ちぇ〜守銭奴め〜。しょうがないなあ」 追加で差し出された五千円を受け取って、俺はそれもポケットにしまった。真新しい新札はその瞬間にポケットの中で皺を作る。  この金も、元々は利用されたどっかの誰かのもんだったんだろうか。別にどうでもいいし、俺が知ったこっちゃないけど。 「ホスケ、ほんと平気?バイク乗んの無理じゃない?」 「へーき」 メゾさんの言葉を背中で受け流して、散らかったクローゼットから適当な上着を羽織った。  下駄箱の上に乗っかったキーくんのヘルメットの中に鍵も一緒に置いてあったので、それを掴んで靴を履く。少し頭がグラグラする気がしたけど、多分外の風に当たれば大丈夫。スーパーまで飛ばせば十五分で行けるのだ、一時間もしないでカートンが二つ買えることを考えれば悪い話じゃない。  こめかみがたまに痛むので親指で押さえつけたりしながら地下駐車場まで向かった。いつもの所に停めてあるキーくんのバイクに鍵を差して、ヘルメットをつける。  響くエンジンの音を引き連れながら地上へ出る。深夜三時を過ぎた街は人通りもなく、静かだった。  風を受けながら夜道を走る。相変わらずバイクに乗っている時だけは気持ちがいい。  無免でしかも飲酒運転なんてしてる奴が、果たしてこの夜の下に、どれだけいるんだろう。  自分の常識なんて宛てにならないからわからないけど、もしかしたらそんなの俺くらいなのかもな。非常識だって、普通の人ならドン引きするのかもしれない。もうずっとどっかが麻痺してるから、そーゆーの分かんないや。  この状態で何かに当てたり誰かを引いたりしたらシャレになんないんだろうな。こんな空っぽな俺でも、そういう瞬間には人生終わったとか思うのかな。想像してみるけどもう全部どっか他人事みたいに霞んでる。  ただ流れていく視界を通り過ぎながら俺はそんなことをぼんやり考えた。  一体いつまで続けるんだろう。なんの意味も生産性もないゴミみたいな毎日を、俺はいつまで続けていくんだろう。  仕事がクビになったら即無一文だし、クレさんに部屋を追い出されたらその瞬間から宿無しだ。自分の家に帰ることはきっとしない。だってもう、ただいまの言い方も忘れた。親父やばあちゃんにどんな顔で会えばいいかも分からない。  忘れちゃったな。こういう風になる前は俺、どうやって生きてたんだろう。  信号のない交差点を右に曲がる。世界に自分しかいないような気がして、このままここで消えたら誰にも知られず誰にも探されず、いなくなれるのかなと思った。そうなら楽だ。そうだったらいいのに。  曲がった瞬間のことだった。向こうも他に通行人なんていないと思ってたのか、アクセル全開の軽自動車と出会い頭、ぶつかった。  あ、車だと思った時にはもう遅かった。右斜め前から突っ込んだ自分は車のフロントにぶつかって、バイクごと豪快に吹っ飛んだ。  宙を舞って地面に叩きつけられる。体がバラバラに千切れたような感覚がして、バイクの下敷きになった自分の右足が変な方向へ曲がってるのに気づく。  痛くはない。痛みが、やってこない。それより思考と視界が遠くなるから、ああこれはいよいよまずいなと思った。  頭打ったかも。俺、死ぬかも。アスファルトの上バイクと一緒に横たわったまま、遠のいてく車の音をただ聞いた。  こういう時って走馬灯とか見るんだと思ってたけど、ふうん、違うんだ。頭の中には何の映像も音も流れない。やけに黒みがかった視界の先に、ただ倒れたバイクとグリップを握る自分の手が見えるだけだ。  これで終わんのかな。これで全部おしまい?  おしまいかあ。…なんか、いーか、それでも。「怖い」より「やっとか」って思った。思っちゃった。  もう二度と開かないかもしれない瞼をゆっくり閉じる。  ごめんねキーくん。バイクぶっ壊れちゃったかもしんない。でもそのごめんねさえ、もう遠いどっかの世界の、知らない誰かの感情みたいだ。  暗がりの中へ身を沈めたら、いよいよ俺は俺を全部捨てて逃げ切るんだろう。遅れてやって来た身体中の痛みが鬱陶しくて、俺は最後に舌打ちをした。
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