Chapter.5

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Chapter.5

■chapter.5-1  人は死んだら、こういう場所にやって来るのかと思った。真っ白い天井に丸い電気がいくつかついていて、なんか全体的に殺風景で静かで、ふうん、こういう場所にやって来るんだって。  程なくして、ここが病室なのだと分かった。  俺はベッドで寝ていて、左右を見ればカーテンで仕切られた他の誰かのベッドがある。  それから自分の体を見てみる。右腕と右足は包帯で固定されていて動かない。動かそうとすると痛い。痛いと感じるということは、死んでないということだ。…俺は、生きてんのか。  左腕は動かせることに気づいて、自分の頭を触ってみる。  額に一箇所、ガーゼが貼ってある。後頭部が痒くてかこうとしたら、ちょうど包帯が巻いてあってかけなかった。 「……」 段々と思い出した。俺、事故ったんだ。  キーくんのバイクで走ってたら車とぶつかって、そのままバイクごと吹っ飛んで。…バイクはどうなった?あの時からどんくらい経ってる?ここはどこの病院で、俺はどうやってここに来たんだろう。  周囲を見渡すが、ベッド横のサイドテーブルにはあの時ポケットに入れていた財布しか乗っていなかった。  程なくして病室の壁に時計がかかっているのを見つけ、時刻だけ知ることができた。四時半。部屋も窓の外も明るいから、午前ではなく午後なんだろう。  左肘を支えにして上体だけ起き上がる。右側の背中がつったように痛くて、ここもきっと事故った時に打ったんだと思った。でも息は普通に出来るし、意識もしっかりしてる。  生きてる。俺、死ななかったんだ。終わったと思ったけど、死んでなかったんだ。  少しして看護師が部屋に入ってきた。看護師は俺が起きているのに気付くと少し驚いて、それから軽く頭を下げた。 「稲田さん。おはようございます」 「…おざす」 「もう体を起こせるんですね。事故に遭われて、昨日の夜救急で運ばれてきたんですよ。覚えてらっしゃいますか?」 看護師の言葉で、今は事故から一日経っているのだと理解した。  そっか、たった一日。もっと長い時間経っているのかと思った。 「…はあ」 「通行人の方から百十九番に連絡があって。どうですか?体は痛みますか?」 「はあ、いや…まあまあ」 「でもはっきり話されてますね。良かった。頭は軽く打っただけだったみたいで、大丈夫だろうって先生が…。あ、ごめんなさい、また後で詳しくお話しします。ちょっと待っててくださいね」 看護師は時計をチラリと見て少し慌て、そこで話を遮った。  タライと布巾が乗った作業台を押しながら、俺の奥のベッドへ進み「○○さん」と声を掛けそっとカーテンを開ける。隣で、看護師とじいさんの会話がなんとなく聞こえた。 「……」 窓の向こうに見える空が、夕日に染まっている。少しだけ窓が開いているのか、時折カーテンが揺れた。遠くで車のバックする音や飛行機が飛ぶ音がする。  嘘みたいに穏やかだった。自分がここにいるのが、なんかの間違いなんじゃないかと思うほど。  それから数十分後、俺が起きたことをさっきの看護師が知らせてくれたんだろう、担当医と名乗る医者がやって来て事故の時の俺の様子や手術の内容を教えてくれた。  右足と右腕は骨が折れているが、それ以外は軽傷だったらしい。処置も無事に終わっていて、数週間後には退院できるだろうということも。 「正面からじゃなくて、こう…多分横から当たって横転したんだと思います。事故の衝撃でというより、バイクの下敷きになって骨折した感じなので、命に関わるような状態ではなかったですよ。良かったですね」 「…はあ」 「えーと、そうだ。ご家族の方には今朝連絡をしまして。数時間前にいらっしゃってたんですけど、もう帰られましたかね。お話できました?」 医者の言葉に一瞬体が固まる。…親父が、来てたのか。 「…や」 「そうですか。また日を改めていらっしゃるかな。ゆっくりお話してください」 「…はい」 「また経過を伺いに来ますね。この後夕飯の時間なんですけど、食べれそうだったら食べてください。片手だから、ちょっと大変かもしれないけど」 医者は最後に笑って、それから席を立った。  俺は一人残され、ベッドの上で色々なことへ思考を巡らせた。考えたくないのに、それ以外にできることがない。  親父はどんな思いでここに来たんだろう。どんな気持ちで、ベッドの上の俺を見たのか。  想像して、そしたら消えたくなった。呆れただろう。心底見損なっただろう。怒りさえ湧かなかったかもしれない。  …会いたくないな、どんな顔をしたらいいのか分からない。ほんとに、分からない。  また逃げたくなって、だけどもう自由に動かせないこの体じゃここから逃げ出すこともできないんだと分かった。  会いたくない。会いたくないよ。もうやだな、なんで俺くたばらなかったんだろう。  キーくんのバイクはどうなったかとか、あの時の車はあのまま逃げたのかとか、クレさん達にはもう知られているのかとか、いろんな考えが頭をよぎったけど、でも何より頭の中を占拠したのは親父だった。  そっか、そうだよな、家族ってこういう時一番に連絡が行くんだ。顔合わせてなくても、どんだけ遠くなったような気がしてても、親父は俺の父親で、俺は親父の子どもなんだ。  やだな、ほんとにやだ。いつでも逃げられる気でいたけど、違うじゃん。逃げらんないじゃん。全然逃げらんないじゃん。  無性に煙草に縋り付きたくなって、だけど今はそれすら無理なんだと知って絶望した。だってベッドから抜け出すことさえできない。なんにもできない。  事故に遭う前まで、バイクに乗ってれば逃げれるとか本気で思ってた。俺は俺を手放せるって、自分から逃げ切れるって。  バカだな。ほんとにバカだ。なんでそんなこと思ってたんだろう。考えることをやめた脳みそはどこまでもおかしくなって、やっぱまともじゃなくなるのかな。 「……」 左手の人差し指と中指を立てて口の前に当てる。息を吸い込む。そこに、煙草はない。だから、吸えないんだってば。考えるより先に動いた手と肺に自分で呆れて、思わず笑いそうになってしまった。マジで馬鹿じゃないの。それしかないの、お前。  …そうだよ、これしかない。これしかなかった。  吸わせてよ。今すぐ誰か持ってきてよ。頭おかしくなるよ。なんか考えてたら頭おかしくなるから、ねえ早く誰でもいいから持ってきてよ。  否応無しに巡ってしまう思考を止めたくて、思わず叫びそうになった。やだよ。怖い。今すぐ逃げたい。  人差し指と中指の間の隙間に縋り付くように、俺はまた強く息を吸った。  いくら吸い込んでも目を瞑って呼び起そうとしても、それは当たり前のように、なんの味もしない。 ■chapter.5-2  病院食というものを初めて口にした。  腹は空いてなかったしなに食ってもあんまり味がしなかったけど、食器を下げられる時間まで俺はずっと食い続けた。  左手しか動かないから思うように口に運べない。でも何かをしている方が気持ちが楽で、はるかにマシだった。  俺のスマホと荷物を届けにこずえさんがやって来たのは、それから少ししてからだった。  画面がバキバキに割れたスマホは、事故の時少し遠くへ投げ出されていたらしい。ジャンク品みたいな見た目のそれは、それでも壊れずにちゃんと動いて、こずえさんが見ながら「タフだね」と言った。  気がかりだったキーくんのバイクのことも話せた。弁償すると言うと「もう捨てて買い換えるって言ってたから」と返された。  それは本心だったのか、それとも俺に気を使った言葉だったのか分からない。もしかしたらあのバイクに沢山、二人の思い出が詰まってたかもしれない。ダメになってしまったことを知って、二人は悲しんだかもしれない。それを思うと居た堪れなかった。  こずえさんが来たということは、多分クレさん達にも事故のことは知られているんだろう。  見舞われに来ても困るし、もう、このまま会わなくていい。俺がそう感じるのと同じように、向こうもきっとそう思ってる。  罪悪感や責任の所在は、あの空間の中にいた誰の中にもきっとない。それでいいと思った。俺のことを話題に出してくれなくていい。忘れてくれていい。  こずえさんが帰る手前、ボロボロになったスマホが震えてメールを受信したことを知らせた。表示された名前を見て、息が止まるかと思った。ひろの名前が、そこに表示されてたから。  メールは開けるわけもなく、俺はそのままスマホから目を背ける。  もしもひろが、今の俺を見たら。  その続きを微塵でも考えるのが嫌で、だけど放っておいたら勝手に頭が想像しようとしてしまうから、俺はわざと包帯の中の右腕を動かして、痛みでそれを遮った。  面会時間も終わり、静かで長い夜がやって来る。  このまま夜をやり過ごすのは絶対無理だと思って、俺はナースコールを押し、やって来た看護師に眠剤を要求した。  足が痛くて眠れないと嘘をついたら、痛み止めと眠気を促進する薬を処方してもらえた。そのおかげでその夜はあまりいろんなことを考えないまま眠ることが出来た。  今の俺が唯一できるのは、もう寝ることだけだった。どうしようもなくなったらまた、嘘ついて薬を貰えばいい。泥みたいに眠りたい。何も考えたくないと思うのは事故の前から変わらなかった。考えるのがやっぱり、俺は怖いのだ。  翌朝、朝食の時間に起こされて俺は目を覚ました。また全体的に色も味も薄い食事が出てきて、たいして美味いとも思わないまま俺は左手と口を動かし続けた。  動けなくて煙草が吸えないなら、なにか時間を潰せるものが欲しいと思った。煙草以外に、俺に何があるだろう。本とか?ゲームとか?ベッドの上というひどく狭い限られた場所で、俺が時間をやり過ごせる方法は一体何だろう。  朝食が終わった後、時間は午前十時くらいだった。途方に暮れそうになったのでまた眠剤でも貰えないかと思い立ち、部屋に看護師が来るのを待っていた時だ。  部屋の出入り口である引き戸が開いて、俺はその扉の向こうに立っていた人物と目が合い、頭が真っ白になる。  そこに居たのは、親父だった。 「……」 親父は俺のことを確認すると何も言わずベッドの側までやって来て、突っ立ったまま俺を見下ろした。 「………」 声も出ないし、視線を外すこともできなかった。  親父がどんなことを思いながら今俺を見下ろしているのか、わからない。逃げたい。あの時バイクに跨って走り去ったみたいに今できたら、どんなに良かっただろう。 「…なんか言うことは」 親父が俺に言葉を投げかける。投げかけられた言葉を俺は受け取れない。確かに耳に届いたのに俺が身動きも取らないまま受け取ろうとしないから、親父の言葉はそのまま床に落ちていった。 「…なんもねえのか」 「……」 心臓が握りつぶされたように縮こまって、苦しい。唯一自由に動く左手が親父から見えない角度でそっとシーツの皺を握りしめる。  ああ本当にダサいな。みっともない。救いようがない。 「謝れ」 親父の声が鋭くなる。俺は息が苦しいのをどうにもできないまま、虫みたいに小さい声で「すんませんでした」と言った。 「……」 親父が顎を片手でさする。沈黙が岩のように重たく、俺の体を容赦なく押し潰そうとする。  次第に親父は片手で顔を覆って、それから俯いた。溜息を数回吐いて、ほんの僅かだけど手を、震わせていた。俺はその様子をただ見ていることしかできない。震える手から、目を離せない。  次の瞬間、俺は勢いよく頬をはたかれた。はたかれた部分がジリジリ焼けるように熱くなって、俺はその温度に呆然とする。  ゲンコツを食らうことは今まで何度もあったけど、ひっぱたかれたのはこれが生まれて初めてだった。  何にも理解できないまま親父を見上げる。赤くなった目に、両方とも涙が溜まっていた。怒りでなのか、親父は口元を震わせながら俺を見ていた。 「…わざとやったのか…」 「…え」 「死のうとしたのかって聞いてんだよ!!」 部屋中に聞こえるほどの声で親父が怒鳴る。  はす向かいのベッドで本を読んでいたおっさんがこちらを伺うのが何となく視界に入った。もしかしたら他の患者らもこっちを見ているかもしれない。 「………ちがう…」 動いた口からこぼれた言葉は、たったそれだけだった。信じられないくらい声が震えていて、自分で自分に驚く。 「…どんだけ…心配かけたと思ってんだテメエは…」 「……」 「俺が、どんな思いしたか…お前分かってんのか!!」 もう一度怒鳴られて、親父の感情がダイレクトに身体中にぶつけられた。はたかれた頬より目が熱くなる。視界がじわじわと揺れる。  心臓がバクバクする。肺が膨らまない、うまく吸えない。熱くなった視界から勝手に涙が湧いて出てきて、俺は親父の方へ顔を上げられなくなった。 「…ご、ごめんなさい…」 「……」 「…ごめんなさ…」 気道まで熱を帯びてうまく喋れない。つっかかる俺の言葉を、親父は黙って聞いていた。 はたかれた頬はずっと熱い。熱を持ったまま、俺の死にかけてる脳みそを呼び起こそうとする。  心配したんだ。きっと俺が想像もできないくらい。  もしかしたら俺が自殺しようとしたのかもしれないって考えて、その考えが脳裏をよぎった時、この人は一体どんな気持ちだっただろう。  …分かるわけない。俺なんかにそんなの、欠片も分かるわけがないんだ。  本気で怒鳴られて、頬をはたかれた。本気の怒りをぶつけられた。憎いからじゃなくて、面倒だったからでもなくて、俺を、心配してくれたから。本当に本気で、心配してくれたからだ。  ごめんなさい。心配かけてごめんなさい。  なんも言わないで、逃げるだけ逃げて、それでこんな馬鹿な目に遭って、みっともなくて本当にごめんなさい。迷惑ばっかかけて、なんもわかんない馬鹿で、こんな、どうしようもなくて。 「……」 「…無免で、しかも酒飲んでたらしいな、お前」 「……」 「どんだけ馬鹿なことしたか分かるか?」 「…」 涙を左手で拭いながら首を縦に振る。親父はまたさっきと同じように溜息を吐いて、それから背後にあったパイプ椅子を引き寄せ力なく座った。 「…二度とこんなことするな」 必死で繰り返す息に嗚咽が混じりそうになるのが嫌で、堪えた。何度も首を縦に振ると、親父の「この馬鹿…」という言葉がすぐ近くで聞こえた。  頭を乱暴に撫でられる。撫でながらやっぱりまた段々腹が立ってきたのか、親父は最後撫でていた手のひらで俺の頭を軽く叩いた。 「ふざけんなよ、この馬鹿」 「…うん…」 「…死んだかと思った……」 「……」 親父の声が震えてそれ以上は言葉にならなかったから、俺の心臓は壊れて粉々になる。  心の中で死ぬほど、ごめんなさいを繰り返した。何度も何度も繰り返し続けた。謝ったって元に戻らない全てのことを思う度、涙がまた湧いてくる。 「……生きてて良かった…」 こんな自分のことを、自分以外の誰かが「生きてて良かった」って言う。声を震わせて、涙目で「馬鹿野郎」って、言ってくれる人がいる。  自分のことを、大事に思ってくれる人が、確かにいる。  ああ、気付いた。  俺は今やっと本当に気付いた。ひろが言ってくれた「大事にされてない」って言葉の意味が、本当にようやく今、分かったんだ。  俺が誰のことも大事にできないのは、俺が俺のことを一度も大事にしたことがないから。自分の気持ちを、体を、生きていく日々を、一度だって大事にしたことがなかったから。  …大事にすることが、きっと怖かった。だって本当に悲しい時、辛い時、ダメになっちゃうんじゃないかって。心が死んじゃうかもしれないじゃんって思って。  そんなの怖い、怖くて耐えらんないよ。もしそうなったら俺は二度と立ち上がれないから、もうきっと起き上がれなくなるから、だから決して真正面から向き合わないように、大事にしないことを無意識に選んだ。毎日の中で感じる悲しみや寂しさを、どこか他人事のように、遠巻きに「ふーん」って、冷めた目で見るだけにした。  それでも一丁前に人を好きになったり、いろんなことに腹が立ったりは、する。そんなことだけはしてしまえる。  だから人並み程度にできてる気になった。  誰かを好きになってその誰かに好きになって貰う度、なんだ俺ちゃんとできてるじゃんって勘違いした。  馬鹿だから勘違いしたまま調子に乗った。自分のクソみたいな弱さを知ろうともしないまま、大事にすることを放棄したまま、そうやって俺はいつも誰かを好きになった。  俺が傷つけてきた人たちはみんな、みんな、いつだって俺を大事にしてくれてた。こんなどうしようもない俺のことを、ずっと大事にしてくれた。  大事に思うから悲しくて、大事にするから本当に深い傷が付く。怖いのは誰だってきっと同じはずだ。なのに、それでも、大事にしてくれたんだ。  人を大事にできないこんな俺を、みんなどんな気持ちで、いつも想ってくれてたんだろう。どんな気持ちで見ててくれてたんだろう。どんな気持ちで、どんな傷を負いながら、そばにいてくれてたんだろう。  ごめんね、ずっと気付けなくてごめんね。沢山傷つけてごめんね。大事にしなくてごめんね。大好きなのに、ボロボロにして、本当にごめんね。  ひろ。俺、大事にされてた。  …されてたよ、今わかったよ、遅いよね、馬鹿だよね、だけど本当にわかった。あの時、俺のことを俺以上に、大事にしてくれていた。  俺のことずっとずっと、最後まで大事にしてくれたよね。ありがとう。どんだけ怖かっただろう。どんだけ、辛かっただろう。  奪うばっかで、欲しがるばっかりで、なのに好きだとのたうち回った。どのツラ下げてそんなことが言えたんだろう。  ごめんなさい。本当にごめんなさい。沢山傷つけてほんとに、ほんとに。 「………ひっ…」 涙が止まらなかった。枯れるくらい、溺れるくらい泣いた。親父はパイプ椅子に腰かけたままずっと黙って俺の横にいた。  親父、ごめんね。自分のこと大事にできなくて、大事にする仕方を知らないまんまデカくなっちゃって、こんな馬鹿で、ほんとにごめんね。  俺変われるかな、これから変わっていけるのかな。もう好きな人のこと泣かせたくないよ。大事にしたいって思うものを、大事にできる俺になりたいよ。 「…体、痛ぇか」 泣きながら首を横に振る。尋ねられたその時は本当にそう思ったから首を横に振ったけど、数秒後にいややっぱ痛くないのは嘘だなと思って「ちょっと痛い」とこぼしたら、親父が笑いながら「馬鹿」と言った。  その声に、また泣いてしまう。乱暴に髪の毛を引っかき回すその手のひらに、また、泣いてしまう。 「す…っ…すんませんでした…」 「…おう」 「っ…ごめんなさい…」 「おう、死ぬほど反省しろこのタコ」 「…う、うぇっ…」 嗚咽が混じってぎこちなく上下する肩を、親父ががさつに撫でる。  この手にずっと守られてきた。ずっとずっと、今日まで俺、守ってもらってきたんだな。  …変わりたいよ。変わる為に今生きてるんだって、もし神様がさ、そんなもんが本当にいるのかは知らないけど、もしほんとに神様がそんなことを思いながら俺を生かしたんだとしたら。  頑張りたい。変わる為に頑張りたい。そんで、そうやって頑張る俺のことを、大事にできる俺になりたい。 ■chapter.5-3  その後、一度席を立った親父が今度はばあちゃんも連れて再び病室に戻ってきた。  ばあちゃんは親父の比じゃないくらい顔を真っ赤にして現れて、全身震わせて俺を怒鳴って、それから親父と同じように俺の頬を本気ではたいた。  何度も俺にこの馬鹿と言って、それから神様に感謝しなさいと泣きながら言って、その後俺を抱きしめた。一度止まったはずの涙はまたボタボタ垂れて、俺も泣きながら「ごめんなさい」と繰り返した。二度はたかれた左頬は少し赤くなって、その後もずっと熱を持ったままだった。  大学に全然行ってないこと、成人式には顔だけ出したこと、連絡を絶っていた間は夜働いていたことを話して謝ると、二人は何度も溜息を吐いて「この馬鹿」「馬鹿たれ」と口々にこぼした。  俺の伸ばし放題の髪や髭にもばあちゃんは心底嫌な顔をした。退院したらどうにかしなと言われたので、素直に頷いた。  顔がやつれてるとも言われた。随分痩せたとも。どんなもん食ってたんだと聞かれて「覚えてない」と答えると、また二人は溜息を吐いてうなだれた。  それからどのタイミングだったか、ふと俺の右腕を見た親父が、包帯の先から覗く手首の刺青に気付いて「それどうした」と驚いた様子で言った。 「なんか…気づいたら…」 曖昧な言葉で説明しようとすると、親父はその途中で深い溜息をつき、それから数秒後に結構本気のゲンコツを俺の頭にお見舞いした。 「ったく…こんの馬鹿」 「…ごめんなさい」 「ごめんなさいじゃねえんだよ、どうすんだ本当に…あーもう…」 「…ごめん…」 謝る以外に何も思いつかなくてまた頭を下げると、親父がうんざりした様子で「あーあー、もういい」と手をヒラヒラ振って俺の言葉を遮った。 「…ほんとあんたは、こういうしょうもないとこは父親に似たね。あーやだ」 ばあちゃんがそう言って、それを隣で聞いていた親父は分かりやすく視線を背ける。 「昔の大輔のこと思い出したわ。あーやだ。本当に人に迷惑かけんだから」 「お袋、俺の話はもう」 「思い出したら段々腹立ってきたわ。ほんっとに毎日毎日どこほっつき歩いてたんだか、連絡一つ寄越さないでたまに帰ってきたと思ったら身体中に怪我こさえてきたりして。人の言うことなんか聞きゃしないし、うるせえババアって何回言われたか」 「あーわかったわかった、わかった!悪かった、だから口閉じてくれ」 「なぁにが分かっただよ、本気で悪かったなんて思ってないでしょうアンタ」 「わかったから、こいつの前なんだから昔のことほじくり返すなって」 親父とばあちゃんの会話が続く中、俺は、さっきばあちゃんが言った言葉を思い出していた。  父親に似たね。  …ほんとに、そうなんだろうか。俺の中に親父の遺伝子はあるんだろうか。  だって脳みそがくたばってた時、ああ俺は親父とは違うんだなって、こっちじゃないんだなって思ったから。  何回もあっちの…母親の顔が浮かんだ。似てると思った。なぞってるような気がした。ああもうだめなんだ諦めようって、何回か思ったんだ。 「とりあえず穂輔、あんた大学どうすんの。これからどうするつもりなのか、ちゃんと自分で考えな」 「……」 親父が俺を見る。  大学行けって言ってくれた。合格した時喜んでくれた。あの時の親父の言葉や顔を思い出す。 「…うん…」 もうだめなんだって、本気でそう思ったのはきっと俺だけだ。匙を投げたのも俺、投げた後そこから逃げたのも俺。  親父もばあちゃんも俺を見限ってなんてない。そんなの今まで一度だってされたことないのに、どうして俺の思考はあんなに、灰色の暗闇に飲まれていたんだろう。 「…まあ、いいよ。まずはお前ちゃんと体治せ」 「…うん」 「これからどうするかは、その後ちゃんと話すぞ。わかったな」 「…うん」 それから二言三言話して、親父とばあちゃんは席を立った。また来ると言って病室を後にする。  俺は一人残され、これからどうするのかをぼんやり考えた。  いろんな人の顔が浮かぶ。もらった言葉や思いを一つずつ思い出して、また視界がゆらゆら揺れた。  ボロボロの体が、くたばりかけた脳みそが、何度も自分から見限られた自分が、まだここに残ってる。まだ生きてる。  ちゃんと考えなきゃ。逃げ癖がついた自分と、どんなに嫌でもちゃんと向き合わなきゃ。  逃げることがどんだけ楽で簡単か俺は知った。知ってるから、もうそっちに行っちゃいけない。絶対行っちゃいけないんだよ、死ぬ気で振り切れよ。向き合え、目をそらすな。  俺を変えられるのは他の誰かじゃない、俺だけだ。俺だけなんだ。 ■chapter.5-4  それから数週間後に右腕と右足の包帯が取れた。医者から経過は良好だと話され、数日後に退院することも決まった。  入院中ずっと我慢してたけど遂に耐えきれなくなって、一週間くらい前から俺は煙草をまた吸い始めていた。  財布の中にはクレさんからもらった一万五千円の他に少しのはした金が入っていたから、そっちを崩して使った。  こずえさんが見舞いに来てくれた時この金を渡して返してもらえば良かったのにと、後になって気付いて後悔した。もう返せる機会はないかもしれない。札を入れるポケットの外側にファスナーが付いていたので、どうして良いか分からないからひとまずそこにクレさんの金は折り畳んで仕舞った。  こんなにヤニを絶っていたのはいつ振りのことだったか、久々に吸った最初の一本で少し頭がクラクラして、その時まだ俺は松葉杖をついていたから思わず体がよろけて、慌てて近くのベンチに座ったのだった。  喫煙所で煙草を吸いながら、画面がバキバキに割れたスマホを手に取り退院日が決まったことを親父とばあちゃんに伝える。  帰ったら、三人でこれからのことを話すことになった。  随分見にくくなったスマホの画面をぼんやり見つめる。未読が三桁を超えたラインやメールを、少し怖かったけど開く決心をした。  まずはラインから立ち上げる。半分以上がDMや迷惑メールの類いだったけど、知り合いからの連絡もいくつもあった。  峯田や黒田、堀田からのラインも来ている。「最近なにしてんの」とか「成人式くる?」とか、未読だったラインの日付はどれもこれも一年以上前だった。  既読をつけてから何度も文字を打っては消した。結局、数年越しの返信をどういう言葉で始めれば良いのか分からなくて、読み返すだけで終わってしまった。  病室に戻ってから、今度はベッドに横たわってメールを立ち上げる。自動的に迷惑メールに振り分けられたメールが数百件。そして、メインの受信トレイの上から何番目かに「古手川ひろ」の名前がある。  数週間前受け取ったそのメールを、俺は今日までずっと開けずにいた。  純粋に、怖かったのだ。別れを告げられたあの時の、自分の言動が何度も何度もフラッシュバックする。  自分の取った態度や吐いた言葉が信じられなくて、呆然とする。  送られてきたのがメールで良かった。もしラインだったらきっと既読をつける勇気すら、持てなかっただろうと思う。  件名画面をタップして、俺は薄目になりながら恐る恐るメールを開いた。  メールは「稲田くん、お久し振りです。」という一文から始まり、留学先での生活のことや、この前こっちに帰っていたということが書いてあった。  ひろが半年間アメリカへ留学していることは、実は別れる前に聞いていたので知っている。  半年も会えなくなることを告げられて、俺はあの時どんなことをひろに言ったんだっけ。行ってらっしゃいって、楽しんできてねって最後に言えたのは覚えてる。だけどその前に投げかけた言葉を忘れてしまった。  不満や愚痴を零した気もするし、ひろの決心が鈍るように問い質して、追い詰めたような気もする。  困った顔をして笑うひろが脳裏にくっきり浮かんで、耐えられなくなった。…最低だ、過去の自分に本気で嫌気がさした。  音楽の話題もあった。物凄く有名なライブハウスに行ったということも書いてあり、読んだだけで俺まで少し気分が高揚した。  そっか、ひろ行ったんだ。すごいな、◯◯とか△△がライブやったあの場所を直接その目で見たんだ。  帰国している間、峯田や柴崎さん林さんに会ったということも書いてあった。  そうだったんだ、全然知らなかった。誰とも連絡をしていなかったんだから俺が知らないのは当たり前だけど、それでもちょっと懐かしくなって、同時に寂しさも感じてしまう。  会ってる間、みんなどんな話をしたんだろう。楽しかったかな、そうだといいな。  今のひろがどんな感じかを想像する。別れてから一度も会っていないから全然分かんないや。まだ付き合ってた時「髪を切りたい」って言ってたから、もしかしたら短くなってんのかな。  俺にも会いたいと思ってた、とも書いてあって、心臓が音を立てて軋んだ。  今の俺を見たらひろはどう思うんだろう。想像するだけで怖くて、思わず目を閉じてしまう。  メールの最後の方に、ラインも送ったけど既読がつかなくて心配してますという一文があった。  さっきラインを開いた時、そういえばひろとのトーク画面まで確認しなかったなと思い出す。  …そっか、ラインもくれてたんだ。あんな別れ方しかできなかった俺に、どんな気持ちで送ってくれたんだろう。ほんと俺、心配かけることしかしないんだな、最悪だ。  メール本文の後、話題に上がったライブハウスの写真が数枚添付されていた。  ひろが見た光景をこうやって俺にも見せてくれることが嬉しくて、こうゆうことしてくれんのがすごいひろらしいなと思った。 「………」  ひろ。  だめだ、ひろのこと考えるとだめだ俺。泣いちゃうよ、勝手に涙出てくる。  この感情は何なんだろう。メチャクチャ散らかっててさ、整理できなくてさ、止まってくんなくて、全然、言葉になんなくて。  …メールの中のひろは、俺を「稲田くん」と呼んだ。  そっか、そうなんだ。もう「穂輔くん」って呼ばれることないんだ。  当たり前なのにさ、やだな、すげー辛いよ。辛くて悲しい。また昔みたいに「穂輔くん」って、呼んでほしい。  ひろに名前呼ばれんの好きだった。ハ行で始まるから最初の頃は結構言いづらそうにしてたよね。それでも呼んでくれてさ。数え切れないくらい呼んでくれてさ。  初めて呼ばれた時すげえドキドキしたの覚えてるよ。嬉しかったよ。今も頭ん中でさ、ひろの声でちゃんと再生できるよ。  …もう、過去は変えらんないから。全部俺がしたことだから。  認めて受け入れて、前を見るしかないんだろう。どっかで聞いたことありそうな、励ましの言葉としてはありきたりなフレーズを頭の中で唱える。  前を見るってさ、簡単に言うけど無理だよ、そんなすぐにできないよ。しんどくて苦しくて、こんなにも逃げ出したいと思う。  みんなもこんな辛くて、だけど必死で向き合って乗り越えてきたんだろうか。すごいな、ほんとにすごいと思った。俺も同じようにできんのかな、自信ないな。  涙を拭いてからもう一度ラインを開く。  トーク一覧画面をずっと下まで遡ると本当だ確かに、ひろからメッセージがいくつか送られてきていた。 『稲田くん、お久しぶりです。元気ですか?いよいよ留学が来月に迫ってきました…!』 『稲田くん、こんにちは。来週アメリカへ向かいます!』 『お久しぶりです。お元気ですか?◯日から一週間ほど一時帰国します。』 未読だったメッセージは全部で三つ。未読の一通目のメールは別れてから二年ほど経って送られたものだった。  毎日なんの実りもない生活を送っていたから気づかなかったけど、そういえばひろと別れてからもう三年くらい過ぎているのかと思い返した。  年月を正しく把握した途端、途方に暮れそうになった。  三年。そんなに長い時間を俺はドブに捨てていた。いつの間にそんなに時が経っていたのかと信じられない気持ちだった。  …三年間も逃げてたんだ。そっか、俺ほんとに頭が死んでたんだな。麻痺してた。おかしかった。  親父が会いに来てくんなかったら、あの時のひろの言葉がなかったら、もしかしたら俺はまだ逃げたままだったのかもしれない。  それを考えると身がすくみそうだった。おかしくなってる間は、だって自分がおかしいと本当には気付けない。気付かせてもらったんだ。俺一人じゃきっと、ずっとダメだった。  過去は変えられない。変えられないってことは消えないってことだ。  何度でも後悔して、死ぬまで思い出せばいい。何度も食らって泣けばいい。泣いてもいい。  既読が付いたことはいつか知られるだろう。それを思うと怖いけど、怖くてもいい。  いいんだ、怖いと思うことからもう逃げないでいよう。 ■chapter.5-5  退院後、親父の車に乗せてもらって一緒に家に帰った。  家に着くとばあちゃんが先に中で待っていて「おかえり」と言ってくれたので、言い方を忘れかけていた「ただいま」を、そのお陰で俺は言うことができた。 「あんたはこれからどうしようと思ってんの?」 三人でリビングのテーブルを囲み、自分が淹れたコーヒーを啜りながらばあちゃんが俺に尋ねる。  入院中、一人で考える時間は充分すぎるほど与えてもらった。  俺は自分が考えていたことをぽつぽつと話し始めた。 「…大学は、卒業したいと、思ってて」 「…そう。大変だよ。まずは生活から改善してかなきゃなんないんだからね。勉強もしないと。誰も手伝ってなんかくんないんだよ、あんたが自分でやらないと」 「うん。…頑張りたい。と、思ってる。…や、思ってます」 決意は固めた筈なのに、どうしても自分の口から出る言葉は歯切れが悪いものになってしまう。今どういう気持ちで親父やばあちゃんが聞いているのかが、分からなかったからだ。もしかしたら呆れているかもしれないと思うと、怖かった。 「金は、いつか返そうと思ってる。…迷惑かけてごめん。だから、もうちょっとだけ力貸してほしい…です」 それまで俺の横で黙って聞いていた親父が「いいよ」と短い言葉を挟んだ。 「金は別に。お前がどうしても返したいっつうなら、返せるその時に返してくれりゃいい」 「…うん」 「本当に卒業する気あんのか」 「…うん、ある」 「…そうか」 親父は良いとも悪いとも言わず、ただ頷くだけだった。コーヒーを啜りながら前を見つめる親父が、今なにを考えているのか俺には分からない。 「じゃ、とりあえず当面の目標はできたっちゅうことね。穂輔、自分で言ったんだからちゃんとやんなさいよ」 「うん」 「次はないと思いな。いいね」 「はい」 ばあちゃんはそこで一区切りつけたのか「ちょっとトイレ借りるよ」と言って席を立った。親父もそれに続くようにして、胸ポケットの中から煙草を取り出して台所へ向かった。  換気扇のスイッチをつける親父の姿をぼんやり見つめる。俺も吸いたくなってズボンのポケットの中に手を入れ煙草の箱に触れるが、吸ってもいいものか分からなくてそこで手が止まってしまった。 「…そこで吸うなよ、お袋怒るから」 親父が俺の方をチラリと見て言う。  昔から変わらない、赤ラーを親指と人差し指で持って煙を吐く親父の姿が、とても懐かしく感じた。 「…俺も吸っていい?」 「なんだよ改まって。だめって言われると思ったか?」 親父が小さく笑ったので少し安心して、俺はソファーから立ち上がり親父のそばまで向かった。  アメスピを一本取り出して火をつける。  親父とこうして二人並んで吸うのは生まれて初めてだった。高校の時からコソコソ吸っていたし親父もそんな俺に気づいてはいたから、取り立てて驚かれることもないのは当然だけど、自分が喫煙している姿をこうして堂々と見せたことは、今までなかった。 「…お前ももう二十一か」 「…うん」 「もう怒んなくていいと思うと…なんか変な感じだな」 「…」 親父も俺と同じように高校の時から吸っていたらしいから、今までずっと俺が吸っているのを強く叱れなかったのだろう。  俺の吸い殻や空き箱を見つける度に「だから…」とこぼして、困った顔をされたことを思い出す。 「…ごめんね」 「あん?」 「昔、親父が忘れて置いてった煙草いつもくすねてたなと思って」 「…あー…まあ、忘れる俺も俺だしな。お袋にいつもえらい怒られたわ」 「…うん、ごめん」 「いいよ。まあ俺も強く言えねえんだよな。多分お前より吸ってたから。高校の時は」 「…へえ、そうなんだ」 俺が高校生の時は昔の話を全然言いたがらなかった親父が、自らそんなことを打ち明ける。俺は内心少し驚きながら、隣で静かに相槌を打った。 「…いろいろ、悪かったな」 「…なに?」 「いつも家空けてたからよ。…寂しい時もあったんじゃねえかと思って」 「…」 思い返してみても、俺は自分のことなのによくわからなかった。自分が寂しいと感じていたのかどうかがひどく不鮮明で、肯定も否定もできない。  寂しいって泣いたり行かないでって縋ったり、そういうことをした記憶が一度もなくて、もしかしたら俺はガキの頃からずっとそういった感情とまともに向き合ってこなかったのかもしれないと思った。  俺の根幹はどこから始まって、いつから歪み始めたんだろう。  …また母親の顔が浮かんで、俺はすこぶる気分が悪くなった。  親父がいつも頑張って働いてくれていたこともちゃんと知っている。謝られる必要なんてない。頭を下げなきゃいけないのは親父じゃなくて俺の方だ。 「…俺がこんなんなったの、親父のせいじゃないよ」 本当に、親父のせいなんかじゃない。絶対に違う。俺が自分で、転がるようにそっちへ行ってしまったのだ。 「大学、頑張るから。…ちゃんと卒業する。心配かけてごめん」 頭を下げると、煙草を吸い終わった親父が灰皿に吸い殻を押し付けてから俺の頭を乱暴に撫でた。 「…馬鹿たれ」 少し不器用なその四文字に、また胸が軋んだ。  もう二度と親父が「悪かった」なんて言わなくていいように、そんな思いをしなくて済むように、これからできることを俺は必死で頑張らなきゃいけない。 「踏み外すこともあるよ。そりゃ、生きてりゃよ。完璧な人間なんてそうそう居ねえよ」 「…うん」 「…生きててくれて良かったよ、本当に」 「…うん」 どうしてだろう。優しくされると泣きたくなってしまう。もっと叱られて、何回だって殴られて、それでも足りないくらい俺はどうしようもなかったのに。  返すべき言葉も見当たらなくてただひたすら、胸は詰まる一方だった。  その夜は親父が買ってきた寿司や惣菜を三人で食べた。  もっと食べなとばあちゃんに何度も言われて、あんまり腹は減ってなかったけど自分の取り皿によそわれた分を俺は頑張って平らげた。  寿司が三分の二ほどなくなった頃少し酒の回った親父が、ふと思い出したように「あ」と言った。 「そういや穂輔、古手川さんに連絡しとけよ」 「…は?」 予期していなかった名前が親父の口から出てきたので動揺し、俺は醤油皿から取り上げた寿司を思わずもう一度その中へ落としてしまった。 「家の前まで来てたことがあって、その時にちょっと喋ってよ。お前からなんの音沙汰もないっつって、心配してたぞ」 「……」 「詳しくは聞かねえけど、余計な心配かけさせんなよお前」 「…」 「古手川さんってあれじゃないの、髪が黒い女の子。あんたと違ってしっかり者って感じの」 ばあちゃんの言葉に小さく頷くと、またいつものように大きな溜息をつかれた。 「なにあんた、連絡してなかったわけ?…は〜もう…あらまあ…」 親父もばあちゃんもひろには何度か会ったことがある。付き合ってたことも知っているし、今はもうそうではないことも、きっと悟られてしまっただろう。  ばあちゃんは長い溜息の後に「…そう」とこぼした。  ひろの顔を思い浮かべる。よっぽど心配をかけたのだろう。まさか、家まで足を向けてくれてたなんて。帰国していた間のことだろうか。 「…まあ、お前のタイミングで良いと思うけどよ」 そう言った後、少しの気まずさを感じたのか親父はテレビへ視線を変えて芸人のトークに笑ったり野次を入れたりした。  どんな風に返信をしたら良いのか、今は全く分からない。心配かけてごめんとか、久し振りとか、いくら考えても始まりの言葉はどれもこれもしっくり来ないのだ。  親父の言う通り、俺が良いと思えるタイミングがあるのかもしれない。まずは生活を立て直さなければいけない。  来週からまた大学へ行く。その前に髪と髭をどうにかしようと思う。  寿司皿の端の方に寄せられたガリをつまみながら、俺はそんなことを考えていた。
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