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杏奈からの願いを断るわけがないのに、不安だったのだろうか。パッと顔を輝かせると嬉しげにヒューゴの頬へ口付ける。
そっと触れるだけの、色のないキスだった。
肩口に当たるデコルテにかぶりつきたいのを我慢して、ヒューゴはにやりと口の端を上げる。
「それだけか?」
「……口紅がついちゃうから、ダメです」
からかわれた杏奈は、目の縁を赤くして視線を外した。
滅多にない外出で、これから二人で侯爵家の夜会に向かうところだった。出発までのしばしの寛ぎ時間を過ごしていたのだ。
せっかく侍女に綺麗にしてもらったのだから、と言う通り、着飾った杏奈は普段にも増して魅力的にヒューゴの目に映る。
ドレスやアクセサリーの見立てをしたのがジュリアなのがやや不満だが、そういうセンスが皆無なことは自分自身よく分かっているし、何よりよく似合っている。
「夜会も、久しぶりですね」
「そうだな」
見せびらかしたい気持ちはあるが、美しく装った姿が自分以外の男の目に触れるのは不愉快だ。
杏奈が大勢の前に出たがらないのをいいことに、社交の集まりには大抵一人でか、パートナーが必要な時は正妻のジュリアと出席することが多かった。
今夜は、ジュリアが事業の契約で遠方に赴いているために、珍しく杏奈を伴うことにしたのだった。
今日の夜会は趣向を凝らしてあるとかで、杏奈も楽しみにしている。
触れたくてたまらないが、せっかくの支度を崩すのは忍びない。せめてと指先に唇を寄せると、薬指に輝く青石の指輪が目に入った。
今日のドレスはシックな赤。それぞれ似合ってはいるが、合わせて見るとややちぐはぐだ。
「……やはり、ほかの色の石も」
「ダメです。指輪はこれだけでいいし、これしかいりません」
外されるとでも思ったのか、指輪を隠すようにヒューゴの手から自分の手を取り返す。仰け反る腰を支える腕に力が入ったが、他意はない。
あんなに適当に済ませた婚姻だったのに、杏奈にとっては特別なことなのだそうだ。だからこの指輪も特別で、代わりの物はないのだと。
そんなことを言われて悶えたのも記憶に新しい。
あの時も随分啼かせてしまったが、仕方がない。そんないじらしいことを言う杏奈が悪い。
「じゃあ、ドレスを違うのに」
「今からですか?」
やや呆れ気味の返事も、ヒューゴにとっては小鳥のさえずりのようだ。
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