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1 そういうのは先に教えてくれ
視界がゆらゆらしてきた。
「結構長かったんじゃなかったっけ?」
真一が酔いの回った口調で尋ねてきたので、朔也はぼんやりと指を折った。
「一年くらいかなー……でも最後の三か月はすれ違っててほとんど顔も見てなかったし」
「うーん……」
朔也の指を見ながら、彼は今が旬の山菜天ぷらから、ふきのとうを箸で取った。久しぶりに会って、県内のみ展開しているおでんメインの、おしゃれ居酒屋のボックス席で飲んだのはいいが、お互いペースが速すぎた。
片や別れ話の顛末を、片や職場の愚痴をこぼすために飲んでいるのだから仕方がないかもしれないが。
「朔也にはもっといいのがいるって」
真一が適当なことを言いながら、テーブルに置いてあった携帯端末を取り上げた。
「月一で浮気するやつはもうやめろ。俺が紹介してやる」
「はあそりゃどうも」
ため息をつきながら朔也はおちょこに入っていた地酒をあおった。大きな世話だ。同居していた相手は出て行ってしまって寂しいけれど、性欲解消ならともかくそう簡単に次の相手というのは難しい。
「そういうカッコしてたらモテそうなのにな」
端末をテーブルに置いて、真一の指先がくるりと宙を描いた。空気とともに喉元を触れられているような心持ちになって、朔也は手のひらで鎖骨のあたりを押さえた。
「着物ってだけでモテるわけねえだろ」
「なんか無性にエロイんだもん」
「……おまえに言われてもなあ」
男が性的指向にない相手だ。ただの概念の話をしているにすぎない。
とはいえ毎日ほとんど外に出るときは、朔也は着物を着るようにしている。
切れ長の目と薄い唇のせいで冷たい容姿に見られがちだが、着物だとプラスに働くことが多かった。男物の地味な色のものだったが、女のものと違ってファッションで着ている人は格段に少ないせいで、よく好意的な視線を浴びる。
着物は好きで着ているだけだ。年上の男に、手が入れやすそうだとか脱がせやすそうだとか言われないこともないが、どちらかというと自分は可愛い男の子をべたべたに甘やかしたいタイプなのだ。
「お」
テーブルの上の真一の端末が短く震えた。返信がきたようだ。取り上げると、こちらに断ってから電話をする。
「克博、起きてたか?」
腕時計を見てくくっと彼は笑った。大学時代ならまだまだもう一件、と言ってハシゴできる。社会人ならまだ眠るのはもったいない時間だ。
「悪いけど迎えに来てくれよ」
「まだ終電あるだろ」
こそっと言うが、彼は否定するように手を振った。
「いいだろー。会わせたいやつもいるしさあ。ちょっと来てくれって」
最寄り駅と店の名前を言うと、真一はさっさと切ってしまった。
「……俺に紹介するつもりなのか? まさか本気で言ってたのかよ」
呆れて朔也が睨むと、真一はにやにやとしたまま店員を呼び止め、ハイボールのおかわりを頼んだ。
「いやいや眠くなってきたから家まで運んでもらおうと思って」
「おい、他の奴に迷惑をかけるような飲み方すんなよ。ていうかあんな言い方で来てくれるわけねえだろ」
「大丈夫だって」
気軽に言いながら店員の持ってきたジョッキを受け取る。ハイペースにもほどがあるだろう。
手酌で銚子から日本酒を注ぐと、おちょこ半分くらいしかなかったが、自分はこのへんでやめておいたというのに。
危惧していた通り、迎えが来る前に真一は沈没した。
やってきたのは猫背気味の、ふわふわの髪の毛の男だった。目が丸く黒目がちでまつ毛が長く、学生のような雰囲気がある。
「きみが真一の後輩のカツヒロくん?」
席を確認しながら横を通り過ぎようとしていた男が、真一の後頭部を見て立ち止まったので、声をかけてみる。
彼は丸くて大きい、どこか潤んだような目でじっとこちらを見つめ、ぱきっと腰を折った。
「藤井克博といいます。先輩は寝てしまったんですか?」
「俺は八代朔也ですよろしくー。さっきまでご機嫌だったんだけどねえ」
漬物を摘まんでいた箸を置いて、指先で真一の額をつつく。コップと皿とを器用に避けて眠っている真一は天下泰平だが、こちらはそうもいかない。起こして連れて帰らねばならないっていうのに。
「あ、大丈夫です。僕がやりますから」
克博はふわっと微笑むと、悩みながら荷物を確認しはじめた。端末をボディバッグに入れ、家の鍵を見つけ、ごそごそと座席に忘れ物がないか調べる。
「ええとすみません、支払いは済みました? 先輩ちゃんと払いましたか」
伝票がないのを見て慌てたように振り返った。そんな大した金額でもない。
「……いいよまた次に会ったときおごってもらうから」
「わかりました後で伝えておきます」
彼は申し訳なさそうな顔で頷くと、軽く真一の肩を叩いた。
「せーんぱい!」
寝こけて返事がない。一度電池が切れるとなかなか復活しないらしい。彼もそれはわかっているらしく、無駄な労力は使わず腕を肩に回して立ち上がった。
うう、と唸りながら真一もゆらゆらと立って克博にもたれかかった。彼は見た目以上に背が高く、力が強いらしい。朔也は彼のボディバッグを持った。着物の上からひょいと掛ける。
「あっ、ありがとうございます」
律義に自分のことのように礼を言って、彼は先に立って歩いた。後ろを朔也はぶらぶらとついていく。本当に忠犬っぽい。大好きな人に尻尾を振って、とことん尽くすタイプなのだろう。
うーんどうしよう。朔也はかすかに唸った。
どちらかというと気まぐれで我儘な猫っぽい子を、甘やかしてにゃーにゃー腕の中で鳴かせるのが好きで、子犬系は守備範囲外なのだ。
せっかく呼んでくれたというのに残念だ。
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