219人が本棚に入れています
本棚に追加
五階にある朔也の部屋は1LDKでわりと広い。フローリングを足袋ですたすた歩いて中へ招き、対面式キッチンの中に入って電気ケトルに水を入れてスイッチを押した。
「座ってて」
二人掛け用のソファを示すと、克博はおっかなびっくりに座った。ローテーブルには新聞とダイレクトメールが置きっばなしで、慌てて拾って新聞置ラックに放り込む。
客を呼べるような準備はしていなくてあたふたしてしまう。
「ほんと、おかまいなく」
居心地悪そうにしているから、朔也はにっこり笑いかけた。
「後輩くんは紅茶飲める? この前おみやげでもらったんだけど、俺一人だと飲まないからな。消費手伝ってくれたら嬉しーんだけど」
「帰れなくなるんで、アルコール以外なら何でも大丈夫です」
「はは、飲み直すのもありだよねえ。このソファ、ベッドになるし、泊っていったらいいよ?」
半分本気で言うと、克博はわずかに沈黙した。馴れ馴れしすぎたか? どういう距離感がいいんだろう。測りながらまたキッチンに引っ込む。
真一を送ったついでに、結局自分の家まで送らせてしまった。そのうえそこでさよならをするわけにもいかず、部屋でコーヒーでも、となった。
真一が会わせたがったと言っていたし、いくら彼が自分のタイプでなくても、このまま追い返すにはいかないと思ったからだ。
とりあえず適当に接待して、帰そう。そうしたら真一の顔も立つだろう。
棚からコーヒーカップを出す。紅茶用は無い。ポットもないから急須で代用するとして、湯を入れて温めてからお茶の葉を適当に入れる。そこに熱くなった湯を注ぎ入れていると、克博がぽそりとつぶやいた。
「……着物で紅茶なんだ……」
朔也はぶぶっと吹き出した。
「なにそれ」
「あ、いえ……すみません」
慌てたように謝る。カウンター越しに朔也はにんまり笑った。
「そんなに特別なもんでもねえだろ、着物」
「え、でもすごく難しいって聞くから……」
どことなくわたわたしながら言い募る。彼にはあちらこちらをぎゅーぎゅー締めるイメージがあるのだろう。
姉の成人式なんか朝の四時から大きなトランクを持って行ったくらいだからわからないでもない。だけどそういうのではなくて。
「難しくねえよ服なんだから」
くくくっと笑いながらケトルを置く。
「ええと、何か武道やってるんだっけ? 柔道着みたいなの着るんだろ?」
「合気道です。大学のサークルでやってました。真一さんのみっつ下で」
「そうそうそれそれ」
合気道といってもどんな稽古をしているのか想像もつかない。ひたすら突きを繰り返したり、蹴りを繰り返したりするのだろうか。
「学生時代に二段までとって、それっきりなんですけど」
「へええ。すごいな」
どれくらいすごいかはわからないが、素直に賞賛すると、彼はほんのり赤くなった。
「先輩はもう四段までいってるんですよ。かなり私生活を犠牲にしがちですけど……」
「あー、それはちょっと知ってる。仕事が息抜きみたいになってるって聞いた」
自分を謙遜して真一を引き合いに出したのかもしれないが、彼の合気道への入れ込み具合のヤバさは本人と話してそこそこ知っている。一緒にしない方がいいレベルに違いない。
「その合気道でも着物みたいなの着るでしょ? 難しくないよな」
「僕のところは空手着を着るんですけど……道着は簡単だから……。紐で結んで、帯して、袴もぐるぐる体に巻き付けてくくるだけなんで」
「それとあんま変わんねえと思うんだけどなあ」
このひょろ長い体でどうやって武道をしているのだろう。真一とはどうやって戦うんだろう。気になる。押し伏せられたりもがいたりするんだろうか。
そこまで考えて妄想を慌てて散らした。そういうの失礼だろ。
お茶をカップに注いで、ふたつを両手でローテーブルに持っていくと、ふわっとあたりに紅茶にブレンドされている甘いフレーバーが香った。
ソファに浅く腰かけて目を細めて見上げてくる克博は、背は高いくせに妙に小動物のようなちょこんとした様相だった。ラグに膝をついてコーヒーカップをローテーブルに置くと、彼は軽く会釈をした。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
克博は口をつけたが、猫舌らしく飲めずに一瞬眉の根が寄る。朔也が思わず笑うと、怒りではなく羞恥心に苛まれたらしく顔を伏せた。ふっと紅茶の表面に息を吹きかける。
「えっと、八代さんは」
「朔也でいーよ」
「……朔也さんは、先輩とはどこで知り合われたんですか?」
「あー、別にドラマチックな出会いとかはねえよ?」
朔也はカップをテーブルに置いて軽く胡坐をかいた。
「大学時代バイトが一緒でね。お互い別の業種に就職したから、たまに会って愚痴の言い合いしてる。今日は半年ぶりくらいだったんだけど、二時間保たなかったなー」
「そうなんですか。早々に酔いつぶれてしまってすみません。ご迷惑をおかけして……」
身内の失態を詫びるような言い方もいいけど、何で呼び出されたのか、彼は本当の理由をわかってるのだろうか。自分だけ知っているのもアンフェアな気がして、朔也は苦笑した。
「あいつ、面白いやつに会わせてやるって」
「は?」
「失恋して落ち込んでたら、新しい人を紹介してやるって言ってたんだよね」
「……はあ」
彼は何とも言いようのない困ったような顔をしてから、はっとしたように背筋を正した。
「あ、じゃあ先輩、僕に会わせたい人ってそういう意図で……」
「まあ、そういう意図だ」
「はああ……できればひとこと僕に言ってほしかったなあ……」
性的指向を他人に勝手に話すのはマナー違反だ。たまに真一はとんでもなく無神経になる。ふたりとも苦い表情で顔を見合わせ、そしてふうっと笑う。
「どんなやつが来るのかなーと思ってたけど」
「あの、何かすみません、あまり面白げがないやつで」
長いまつ毛を瞬きながら、うつむいてしまう。全然好みじゃないんだけど。朔也は目を細めてその毒気のない顔を眺めた。
でも可愛いことは可愛い。面白げはあるし、いいやつだ。
「そうかなあ」
否定すると、彼は横目でこちらをちらりと見て、そして誤魔化すようにカップを持ち上げて口をつけた。
「熱っ」
「おいおい大丈夫か」
立ち上がってカップを取り上げると、彼はふわっと頬を紅潮させて恥ずかしそうにした。
こういうハプニングに物慣れない様子が可愛い。ちょっとそそられる。そっとカップをテーブルに戻すと、片膝だけソファに乗り上げた。
裾の巻きが乱れて、ふくらはぎから足首が顔を出す。彼は一瞬視線をやってから、ぱっと逸らせて泳がせた。向こうもなかなか悪くない感じだ。
最初のコメントを投稿しよう!