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熱帯魚
「じゃあ須崎君は、一番後ろ、坂井さんの隣の席へ」
黒板に書かれた”須崎 護”の字を見て、“すざき まもる”って読むんだ、と眺めていた私に、一瞬クラスの視線が集まった。
五月の連休明けの教室で、時季外れの転校生として紹介された彼は、整った顔立ちにノープリーツマスクが似合っている。一番後ろの私の席から見ていると、前髪を直す女子が半分以上いるのがわかるほどに、全身が爽やかだった。
私たちとは違うカバンを肩にかけた彼が通路を進んで、隣の机にそのかばんを置く。
「坂井さん、悪いけれど、教科書を見せてあげてください。今日には間に合わなかったので」
担任のマスオさんこと浅野先生は、いつもみんなに丁寧だ。名前がマスオさんなのではなく、単に見た目が恐らく日本で一番有名な、日曜日の夕方に会えるマスオさんに似ているからそう呼ばれている。
見た目だけではなく、腰が低くて人の好さそうな感じも似ていると思う。他の誰も、そんな風に言った事はないけれど。
「よろしく」
そんなことを考えていた私を見下ろした彼のその一言は、やけにはっきり堂々としていて、
「こちらこそ」
と小声で言った私が、転校してきた気分になった。
「では、授業に移ります」
マスオさんは、戦国時代の歴史が書かれたページを開くように言って、黒板に向かった。
「少し、席近くしてもいい?」
授業が始まって5分ほどすると、須崎君が小さな声で言って、私に視線を向けた。近くで見ると切れ長の目は一重なのに、瞳がとても大きかった。
「視力、あんまりで」
「あ、い、いいよ」
私は一応、手を上げて先生に申告した。
「わかりました。須崎君、席も前がいいですか?」
もう一度、今度は二人でクラスの視線を引き受ける。
「いえ、大丈夫です。今日は、眼鏡を忘れてしまったので」
「では、今日は見やすいようにしてください」
ありがとうございます、と言ってから、須崎君は自分の机を少しこちらに近づける。私は、教科書だけを机の隅に寄せた。
多分明日も隣の席にいることになった彼は、社会の授業の間、もう口を開かなかった。
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