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出張前夜
「えーちゃん、本当に行っちゃうの」
「行くよ。仕事だもん」
「一週間は長いよ。そんなに離れてたら寂しくなって、また浮気しちゃうと思う」
「すればいいじゃん」
ついに事前報告とは片腹痛い。
こっちとしたら願ってもない事だから大いに結構と笑って勧めれば、顔を引きつらせて怒り出す。
「仕事仕事って、俺と仕事とどっちが大事なんだよ」
「もちろん仕事。働かなきゃ生きて行けない」
「だから俺が養うって言ってんじゃん!」
またその話しか。
結婚を仄めかす話題にため息が出る。
同棲した時、私は社会人二年目でクズ彼氏は大学生だった。付き合った経緯は合コン。頭数で良いと言われたのにクズ彼氏に一目惚れされ、熱烈なアプローチに絆されたのがいけなかった。
気付いたら部屋に転がり込まれ住みつかれていた。
今なら分かる。
当時の私は愛される喜び、愛する喜びに酔っていたと。
クズ彼氏が大学を卒業するまで、働いている私が家賃も食費も光熱費も、お小遣いまで工面してクズ彼氏に尽くしまくっていた。
クズ彼氏が仕事に就いても、甘やかしは治らない。
流石に生活費は受け取っていたけれど、必要以上の物やプレゼントは辞退していた。
社会人成り立てなのに無理して欲しくない。
傍にいるだけでいい。
たぶん私は、無意識でクズ彼氏の自尊心を傷付けていたのだろう。
ほどなくして、最初の浮気が発覚した。
相手は歳下の大学生。
守ってあげたくなるような可愛い容姿。
姉御肌気質の私とは似ても似つかぬ性格。
私にも非があったと涙を飲んで許した。
それ以降、クズ彼氏に物やプレゼントを贈られても、嬉しいありがとう、と素直に受け取っていた。
なのに、また浮気した。
今度は正直、何が原因か分からない。
分からないから狼狽えて、悲しくて、苦しくなって、息をするのも辛かった。
捨てられると思っていたのに、クズ彼氏は私に愛してると言う。でもまた浮気を繰り返す。
口先だけで信用ならない態度の男。
原因不明な浮気は性分だ。
だから結婚出来ない。
したくない。
「俺にはえーちゃんしかいないんだ」
「そんなことないよ。すぐに相手が見つかるよ」
「あんまりつれないことばかり言うと、遊びが本気になるかもしれないからね!」
ほらね。
私しかいないと言った側から、それを覆す言葉を口にする。遊びと本気を分けている、なんて妄言だ。あんたは初めて浮気をした時から、私を傷付けていい、大事にしなくていい、と位置付けていた。
所詮、私との関係も遊びなんだろう。
どんなに殴っても構わないサンドバッグ。
七年かけて躾られた頑丈なサンドバッグは、好き勝手しても壊れない。
結婚を口にするのは誠意を見せるパフォーマンス。
飴と鞭を使い分け、家政婦のように世話する便利な道具を放したくないだけなのだ。
「出張は決まったことなの。あんたが浮気しようが本気になろうが、行く。帰る場所がなくなってたら、悪いけどメールしてね」
「っ、えーちゃんのバカ!!」
陳腐な捨て台詞だ。
出張用のスーツケースを蹴り飛ばし、中身を散乱させる子供じみた嫌がらせまで付いている。
どうせ寝室で不貞腐れているだけだ。
リビングの扉を全開にして出て行ったクズ彼氏とは、今日が最後になるかもしれないのに。
つい、感傷に浸りそうになるも、締めくくりがあまりにも酷くて笑いが込み上げる。
私達らしい。
これでいい。
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