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違和感
さよならは言わなかった。
違う、言えなかった。
当の本人が寝室に立て篭もり、私が出発する時間になっても出て来なかったから。
おかげで私はクズ彼氏と浮気女が絡まっていたソファで一夜を明かす羽目になり、気分は最悪だ。
これから出向く先も最悪なのに、最後の最後まで嫌な記憶を植え付けられ、久しぶりに怒りが沸いた。
同時に。
長い付き合いが一瞬で無くなる虚無感と、やっぱり気付きもしなかった事に胸が塞ぐ。
出張が決まってから私は自分の私物を密かに処分していた。お金を出し合って買った共有の物だけを使い、明らかに閑散としていく部屋に何も言わないクズ彼氏。期待はしてなかったけれど想像通りの反応で、少なからず傷付いていたのだ。
新幹線に揺られ、流れゆく外の景色を見ていたら、消えたはずの楽しかった頃が次々と蘇ってくる。
最初の頃のクズ彼氏は大人ぶっていた。
ちょっとクールで、口調も態度も頑張って背伸びしてます感が可愛いくて、その場その場で愛しさのあまりそれを指摘していたら、うっせーバーカ、歳上ぶるんじゃねぇ、と頬を染めていた。
意外に照れ屋で、意外に家事上手。
仕事で帰りが遅くなったら料理を作って待ってくれていた。片付けも率先してやり、疲れてんだから休んでろよ、とぶっきらぼうに労ってくれる。
それがいつしか、年を重ねるごとに精神年齢が退行していった。絵梨花からえーちゃん呼びに、恥ずかしいからやめてと言っても、俺だけが呼べる特権なんだから許してよ、と甘えた口調で強請られる。
可愛い。大好き。愛してる。結婚しよう。
最初は言わなかった愛の言葉も惜しみなく囁いてくれて、本当に愛されているんだと錯覚した。
浮上しては浮気発覚で地獄に落とされる。
その言葉が真実だったらと、夢を見た。
夢を見て、現実を知って、繰り返し繰り返しを重ねる中で、諦めがついた。
七年の同棲に終止符を打つ覚悟が出来たのだ。
おかしいな。
まだ涙が出るなんて。
思い出に浸り過ぎていたら仕事にならないと、気分を変えようと景色から目を外せば、横からスッとハンカチを差し出された。
「え、あの……?」
随分大きなグラサンだ。
マスクも黒いし深い帽子も黒い。
服まで黒いという、全身黒ずくめの怪しさ満点の男が通路に突っ立って前を向いたまま、ハンカチだけを器用に私に向けていた。
受け取りに戸惑っていると、痺れを切らしたのか、男は無言でハンカチを私の膝に置いて立ち去って行く。
使えってことらしい。
見ず知らずの人に泣き顔を見られた恥ずかしさ、親切にされた温かさに、どんよりと沈んでいた気持ちが霧散した。
そうだ。
こうやっていい事もある。
前向きに行こう。
今は辛くても、苦しくても、止まない雨はないというじゃないか。
仕事を考えれば今すぐにでも雨は止んで欲しいところだが、贅沢は言わない。
有り難くハンカチを使わせて貰ったけれど。
ん?
ウチと同じ柔軟剤を使っている。
鼻に香る馴染みの匂い。
ん?
よく見れば、見たことのあるブランドものだ。
クズ彼氏の好きなブランド。
……。
考え過ぎだ。
会わずに別れたし、過去を思い出していたからだ。
だから、この妙な違和感は気のせいだろう。
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