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「あ、メールだ」
東京での会食のあと、俺と遥は度々、SNS でメールの交換をしていた。境遇の似ている相手....ということで、ミハイルも遥とのやり取りに関しては、結構、大目に見てくれていて、ちょっとした愚痴やら相談が時折流れてくるのを、脇から覗き込んだりしている。
「まるで花嫁修業中の深窓の令嬢だな...」
華道やら茶道やらの稽古が厳しいと洩らす遥のメールに思わず目眩がしてくる。隣で見ていたミハイルも小さく唸っていた。
「それだけ必要とされる要素が多いのだろう。隆人の家が、どういう家柄かは知らんが、日本古来の伝統とかしきたりに則った暮らしが要求されるのだろうな」
ミハイルはある意味、俺よりも日本文化に詳しい。何せ東京大学に留学してまで、学んだのが『比較文化史』だという。本当にマフィアのボスなんかより、大学の教授にでもなった方がよほど似合っている。
「俺にはとても耐えられない......」
溜め息混じりにボヤく俺にミハイルが口の端を僅かに歪めて笑った。
「期待しないから、安心しろ。お前は腕のたつマフィアの刺客で、企業の優秀なビジネスマンでもある。上品さは必要だが、『おしとやか』なことは、はなから期待していない」
「当然だろう。俺は一人前の『漢』だ。身体も命も張って生きてきたんだからな」
口をへの字にして胸を張る。鏡に映る姿に、いささか説得力が無いのが口惜しい。
「昔の話だがな」
ミハイルの腕がぐぃ......と俺の腰を抱き寄せる。耳許に熱い息が触れ、心臓がトクン...と鳴る。
「今は.....お前は俺のものだ。勝手な真似や無茶はさせない。この私の『パートナー』なんだからな」
「わかってるよ......」
この前、イタリアン-マフィアのボスに愛想をしたのをまだ根に持っているらしい。
ー俺は男は趣味じゃない!口説かれるのは嬉しくないー
と何度言っても納得しない。
ーだが、男どもはそうは思っていない。お前に誘惑されたがっている奴がごまんといるー
だれがするか!だいたい、俺をこんな色毛虫にしたのは、お前だ。断じて俺の趣味じゃない。まぁ、それはいい。
「俺が気になるのは、遥がその年頃の男子らしい楽しみを何も楽しめずに、毎日を過ごしていることなんだ。隆人もしょっちゅう傍にいるワケじゃないみたいだし、もっと若者らしい『遊び』だってしてもいいんじゃないかと思うんだ」
「若者らしい遊び?」
ミハイルがちょっと眉をしかめた。
「ツーリングはすごく喜んでたし、のびのび出来る時間があってもいいと思う。俺だって、若い頃......サンクトペテルブルクで学生だった時、よくお前と出掛けたよな。スケート行ったり、釣りに行ったり.....一緒に遊んだよな?」
俺は、ミハイルのブルーグレーの眼をじっと見つめた。図書館の昼下がりに出逢ってから、サンクトペテルブルクでの青春の日々は、ずっとミーシャと一緒だった。
学校の帰りにカフェに寄ってお茶して、ヤツの下宿でロシア語のレッスンを受けて、休みの日には街中をブラついたり、ボリソヴォ湖でスケートしたり、ネヴァ川の上流まで行ってキャンプしながら釣りをしたりした。
「そうだな.....」
ミハイルが懐かしそうに眼を細めた。
「あの頃は、お前がとても逞しく見えて羨ましかった。それに、すごく無邪気で....。このまま時間が止まればいいと思ってた」
「俺の時間は、お前に巻き戻されちまったけどな」
俺はつい苦笑を漏らした。ミハイルに強引に時間を巻き戻されて、まったく違う姿で、まったく違う人生をやっぱりコイツと過ごしている。
「仕方なかろう。お前が悪い」
ミハイルが意地悪くニヤリと唇を歪めた。
「お前が俺の知らない場所で勝手なことをしてたんだからな......」
「お前なぁ......」
わかってる。コイツには何を言っても無駄だ。けれど.......。
「遥にも、そういう『普通に』楽しい時間があってもいいんじゃないかと思うんだ」
「そうだな.....」
ミハイルがゆっくりと煙草の煙を燻らせながら、ソファーの背に凭れかかった。
「ボリソヴォの別荘にでも呼ぶか。......少し水遊びをするくらいなら、隆人も怒りはしないだろう。.....契約の話も詰めておきたいしな」
「本当に?」
俺は思わずミハイルに抱きついた。
「羽目を外しすぎなければな...」
ミハイルが俺の背をゆっくりと撫で、俺は小さな吐息を洩らした。ミハイルの声が耳許で低く囁く。
「お強請りはそれだけか?」
「バカ.....」
俺はミハイルの形の良い唇に自分のそれを重ねた。そして、隆人と遥はどんなキスをするのか.....ちょっと気になった。
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