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ナミダの少女
雨かと思った。
僕は頬を拭って空を見上げた。
雲は——薄墨を溢したように暗く濁っている。でもそれだけだ。雨は、降っていない。
気象観測報知局によれば、今日は雨は降らない日だ。だから傘は持ってきていなかった。
雨でなくて良かったと、僕は安堵の溜息をつく。
——じゃあ。ほっぺたの液体は。
何だ。
邪魔な厚い作業用グローブを口で外し、直接頬に触れてみる。外気に冷やされた液体が指先を湿らせた。
濡れた場所を伝っていくと、やがて目に辿り着いた。
涙だった。
また一筋、今度は左目から涙が流れ落ちた。
「何で……」
視界はぼやけ、世界が歪む。
悲しくもないのに、涙が溢れ出る。止まらない。
そんな時、背後から聞き慣れた少女の声がした。
「おはよう、イーサン。どうしたの?」
雪色の髪をした少女の、小動物のような目が僕の顔を覗き込む。
「ミオ」
洟を啜りながら答える。
「涙が——止まらないんだ」
どうしてとミオは尋ねる。僕は、判らないと首を横に振った。
ミオは、そう、とだけ言って周囲を見た。僕もそれに倣う。
辺りを見渡して——異変に気付く。
「イーサンだけじゃない」
目元を腕で拭う人。洟を啜る人。空を仰いで立ち尽くす人。周囲の人達全員が——涙を流していた。
「やっぱり、まただ」
とミオが言う。
「え?」
「ずっと前にもあったの。こういう事」
ずっと前——がいつなのか僕は知らない。ミオは僕よりもうんと長く生きているから、もしかしたら僕が生まれるより前の事なのかもしれない。
「どうして」
僕は問う。
それは、とミオは言った。
「多分、あれ」
ミオが白く細い指で示す。
古い小屋があった。
蔦で覆われた煉瓦造りの小屋だ。街の時間の流れから取り残されたようにひっそりと建っている。
普段通る道なのに、今まで気付きもしなかった。
「あれは何の建物?」
屋根から突き出た煙突から、茶色だか緑色だか灰色だか判らない細い煙が、薄暗い空へゆっくり伸びていた。
「あれは——」
ミオが僕の手をとる。
「来て、イーサン」
イーサンだけに見せてあげる、とミオはひどく小さな声で言った。
「え? ——わっ」
ミオの、雪色の長い髪が風で膨らんだ。
ミオが駆け、手を引かれた僕も続く。足が縺れる。
木目が浮き出た涅色の扉の前に、僕とミオの影が並んだ。
ミオは腰のベルトから鍵の束を取り出し、その中で一番古そうな鍵を、錠前に差し込んだ。
ガチャリと重い音が鳴る。
ミオが扉を開けた。軋る音が響く。
先に入ったのはミオ。次に僕が入る。
中は——。
「わあ……」
——暗い。
けれども。真っ暗というわけではない。薄暗い部屋の奥で、ちろちろと何かが燃えているのが見える。そのせいだろうか、部屋は少し暖かい。
——何だろう……?
一歩踏み出すと、コツンと額に冷たい物が当たった。
天井から硝子の瓶のような物が、長短不揃いで幾つも垂れ下がっていた。紐が長い物は、丁度僕の頭程の高さまで伸びている。短い物は、暗くて瓶の底しか見えない。
それらは時折、入り口から入る風でカチャカチャと揺れた。
それが——。
ぼんやりと弱い光を放ち始めた。ミオが電球のスイッチを点けたのだ。
瓶の中の針金がじんわりと発光する。
けれども屋内の暗さに劇的な変化は現れなかった。足許が見えるようになったというだけで、天井や部屋の隅などには、影がまだ残っている。
「イーサン、ドア閉めて。ここは」
秘密だから——と、ミオは口元で指を立てた。
「うん」
僕は扉を閉める。
——ミオは。
部屋の奥にいた。
僕は硝子の照明を避けながら、やや早足でミオの場所へ向かった。なんだか、この場に居続けたら迷子になってしまいそうな、そんな錯覚に陥ったからだ。
——狭いからそんな事ある筈ないのに。
部屋の奥で燃えていたのは、薪ストーブの——ような装置だった。
そう。これは装置だ。
黒い鉄の箱からはパイプが天井へ伸びていて、そこにはバルブやら計測器やらが不恰好に突き出ている。
それと、不思議なのがこの中の火だ。赤い炎の中に時々、青や紫が見え隠れする。
——そういえば。
僕らが入る前から煙突からは煙が出ていた。とすれば、この火はミオが部屋に入る前から燃えていたのではないか。
——これは。
一体いつから燃えているのだろう。
ミオは——。
装置のすぐ横の、壁に埋め込まれた薬箪笥の前に立っていた。
「何をするの?」
「調整」
何の——とは尋かなかった。ただ僕は、ふうんと判ったフリをした。
ミオは背伸びをして、箪笥の右上の引き出しを開けた。中から蒼い結晶を一つ取り出す。透明感の無い、艶やかな石だ。
隣の机に在る天秤に懸けて、うんと頷いた。
「火を見てて」
「火?」
装置の前に屈んでみる。
装置の窓から火を眺めた。火は、薪を包み込むように燃えている。
言われた通り見た——けれど、僕には解らない。炎の中で青や紫が跳ねて、綺麗だと思うだけだ。
ミオも来て、顔を寄せた。ミオの頬が僕の頬に触れる。あまりにも近くて、溜め息のような優しい吐息が聞こえた。
ミオが装置の火に向けて、指を伸ばす。
「あそこ、見える?」
「え?」
燃える薪。ミオの指はその下を示しているようだった。
組まれた薪の隙間に——。
「黒い——小さい石。石炭かな。割れてる」
少し違う、と言ってミオは立ち上がった。
「イーサン、手袋持ってたよね」
「作業用のグローブだけど、持ってるよ」
「じゃあ、それを嵌めて」
「うん」
僕はわけが解らないままグローブを嵌めた。
「装置の扉を開けて。この石を」
蒼い石が。
グローブの手の平に乗せられた。
「入れてみて」
「うん」
装置の扉を開けると、むわりと熱が解放される。
僕は石を、出来るだけ炎の真ん中に来るように置いた。
扉を閉める。途端に熱が退く。
「見てて」
言われるまま、もう一度火を見る。布切れのように、ゆらゆらと揺らいでいる。
ちろりと青い物が混じった。
「あ」
その青い火は、一瞬にして炎を侵蝕した。
「わあ……!」
鮮やかな青い炎が勢いを増す。
キュッと音が鳴った。ミオがパイプのバルブを回したのだ。
何かを示す計器の針が、目盛りの赤い部分へ到達した。
途端——。
ピーッ、と耳を劈くような甲高い音。
「わっ!」
あまりにも突然の事で、僕は目を瞑り耳を塞いだ。
しかしそれは幾許も無く。
静かになった。
そっと、瞼を開ける。
ミオは計器を見つめていた。
僕も立ち上がって、ミオの真似をしてみる。針が真ん中の太い目盛りを行き来している。
「うん」
ミオは頷いた。
「これで良い」
「何が?」
「これ」
涙——と言って、ミオは自分の目元に指を置いた。
僕も、グローブを脱いで自分の目元に触れてみる。
「あ」
さっきまでどうしようもなかった涙は、もう止まっていた。
「外。見てみて」
「外?」
僕はまた電球を避けて、古びたドアを開けた。
陽光が仄暗い部屋に射し込む。
遅れて明るさに慣れた瞳が、外の様子を捉えた。
人が——何事も無かったかのように道を行き交っている。いつもの光景だ。
「ほらね」
ミオは僕の背後で、口ずさむように言った。
「これで元どおり」
「何を——したの?」
振り返ってミオの顔を見つめる。
「ここは——」
ミオは僅かに頬を緩めた。
「ここは、みんなの涙を管理する所」
「そんなの」
聞いた事がない。
「時々、さっきみたいに装置が狂っちゃうの」
——装置。
僕は装置を見遣った。煌々と青い炎が輝いている。
「そうなるとね。涙が——悲しい時に出なかったり、悲しくない時に出てきちゃったりするの」
だから。
「調整した」
ミオはそう言った。
「調整?」
「そう」
私は。
「私は、涙管理局。涙を管理する人。ずっとやってる」
「ああ」
そこで僕は思い出す。
ミオは。
ミオだけはさっき、涙を流していなかった。
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