小林まりこの場合

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 最初のうちは、下の名前で呼ばれるたびに顔がひきつりそうだったけれど、今では呼ばれただけで頬が緩みそうだ。  単純にも、ほどがある。  結局私も、今までバカにしていたOLとなんら変わらない。それでも、媚びるような声で呼びつけないだけまだましだと、こっそりと思ってみる。  Matsumotoさんは、他の利用客の相手をしながら、呼んでもいないのに私のところへとやってくる。そうしては、日常会話とも言えないような、一言、二言を交わす。彼の質問に、「はい」か「いいえ」で答える程度だ。もちろんトレーニングのアドバイスもしてくれるのだけれど、それが、他の利用客と比べると、丁寧すぎるほど丁寧に教えてくれるものだから、Matsumotoさんに対し、予想外の感情が芽生えてしまった。そのことに、一番驚いたのは自分だった。途端に、ここへ通っている動機が一気に不純なものに思えた。  そして今日も、いつも通りのメニューを淡々とこなしていく。  今は、ランニングマシンの上で走りながら、ガラス越しに遠くの夜景を見るともなく眺めている。  例の媚びるような声は、一時間ほど前から聞こえなくなっていた。  不意に視線を変えると、ガラスに映るMatsumotoさんを見つけた。それだけで、胸が騒がしくなる。  そして、だいぶ利用客も減った頃、頃合いを見て切り上げ、いつものようにシャワーを浴びた。今までなら、素っぴんにメガネでここを出ていたけれど、今では私の中の女の部分がそれを恥じらい、更衣室で鏡の前に座ることすらなかった私が、薄く化粧をし、色付きのリップクリームを塗っている。恥じらいから、鏡に映る自分を直視できないでいた。ついでに言うならば、身に付ける物にも気を遣うようになった。  見られているかもしれないと言う自己中心的な感覚も、良く言えば自分磨きになっているはずだろう。  普段からそこまで前向きではない私からすれば、とてつもなく大きな変化だった。  昨日、仕事帰りに衝動買いしてしまったキャメル色のコートを羽織り、両手に荷物をぶら下げて更衣室を出た。  廊下を歩いていると、後ろから突然声をかけられた。  Matsumotoさんだった。 「あの──」  言いながら、何やら周りを気にしているようだった。 「今、少しだけいいですか?」  遠慮がちな口調に、思わずこちらまでつられしまう。 「……はい」  答えてから、「もしかして……」、そう思うのはきっと私だけに限らないはずだ。 「あの、ここではあれなんで」  言うなり歩きだすものだから、とりあえず彼について行く。  廊下の突き当たりにある扉を開け、非常階段に出た。踊り場で、彼が立ち止まる。 「あの、突然呼び止めてすみません」 「いえ……」
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