10.終止符

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10.終止符

 二学期に入り、いよいよ受験勉強もラストスパートへと突入した。誰もが必死に目の色を変えて勉強に没頭している。  受験生にとって最も大切なそんな時期。  碧衣とふたり勉強に励む傍ら、しかし、僕は次第に真剣に考え始めていた。  碧衣は可愛い。誰より愛おしい。  僕は碧衣を愛している。誰にも決して渡したくない。  他の男に、指一本たりとも触れさせたくない。  それは僕の男の本能であり、同時にエゴイスティックな欲望だ。  碧衣が僕以外の男に惹かれ、恋をする。  潤んだ瞳でそいつを見つめ、そいつの胸に寄り添う。  そいつは碧衣の柔らかな口唇(くちびる)に触れ、碧衣の薄い(きぬ)を剥ぎ、碧衣を……。  そんな悪夢に僕は気が狂いそうになる。  受験勉強に励んでいるはずの深夜、僕の妄想はマックスに達し、僕は己の煩悩に悶え苦しむ。  碧衣は僕の、僕だけのものだ。  碧衣だって僕のことを愛している。  僕達は互いに、真剣に想い合っている。  けれど──────   僕に碧衣を束縛する権利はない。  碧衣は大学に入ってもっともっと勉強し、視野を広げ、そして、僕以外の人間にも接し、更に深く大きな世界を知る必要がある。  それは僕も同じだ。  碧衣に真に相応しい人間(おとこ)になるために。  僕は碧衣を僕の呪縛から解放しなければいけない。  僕はもっと豊かな人間性を身につける必要がある。  だからこそ。  僕は碧衣に……。  ◇◆◇  浅い春。遅咲きの御所紅の梅がその小さな花を咲き誇らせ、匂い立つ頃。  つつがなく卒業式が終わり、想い出深い学び舎を後にした後、僕と碧衣は『RAM』を訪れていた。  碧衣は白いスカーフに紫紺のセーラー服。僕は翠色のストライプタイをきっちり締め、胸に金のエンブレムが施されている紺のブレザーを着た最後の制服姿だった。 「話、て何? 佐伯君。改まって」  碧衣は疑いのないまっすぐな瞳で僕を見つめる。  僕は碧衣のその曇りなきまなざしを受け止めることが出来ず、テーブルの上で組んだ両の掌に視線を落とした。 「お待たせしました」  その時。  ショートカットのスレンダーないつものウエイトレスが、僕達の前にそれぞれホットのカフェラテを置いた。 「ごゆっくりどうぞ」  アルカイックスマイルではない愛想の良い短いその一言を残して彼女は去る。  言えるだろうか。  今言うしかない。  僕は碧衣に……。  僕はラテを一口飲み、口を開いた。 「別れよう。碧衣」  瞬間、空気が硬直した。  碧衣の顔色が変わった。 「どうして! どうして別れる必要があるの? 私は佐伯君が好き。大学が離れてもずっと佐伯君が。あなたのことを好きでいる自信がある」  普段、あまり大きな声を出さない碧衣が噛みつくように鋭い声を出して僕の言葉に反発した。  僕は、何をどう言おうかと暫し逡巡する。  しかし、ラテをもう一口飲むと、碧衣の瞳を真剣に見つめながら言った。 「碧衣。君は人の命を救う医師に。より一つでも多くの、救えない命を救う立派な外科医になりたいんだろう?」 「それは……」 「君は大学生になって、今と違う環境に身を投じて、多くの得がたい経験をする必要がある。もっと沢山の色々な人と出会って。その中には僕よりずっと君に相応しい男もいるかもしれない。いや、今だって僕は。僕が君に相応しい人間だとは僕は思っていない」 「そんなこと……!」  碧衣が反論の言葉を発しようとしたその時。  ボーン ボーン……  壁際の大きな振り子時時計が、十五時の時報を告げた。  その音に二人とも一瞬、気を取られ壁時計を見遣った。  ボーン…………  余韻が残る。  このレトロヴィンテージの大きな壁掛け時計は、本当にこのカフェに似合っていると僕は思う。 「碧衣。よく聞いて。君が大学生に、そして医師になって、色んな人と出逢って色んな体験をして。新しい恋をして……。それでも僕のことを好きだと思ってくれるなら。いてくれていたら、ここで再会しよう。このカフェで。十年後の今日、この時間の午後三時。僕達がデートを重ねたこのカフェで。出来れば、君の好きな明るい窓際の奥のこの席で」  それはこの(かん)、ゆっくりと自分に問いかけ、僕が僕なりに出した苦渋の結論(こたえ)だった。  僕は十年かけて碧衣に相応しい人間に、男になる。  碧衣は僕以外の男とつきあい、恋をして、人間(ひと)を見る目を養わなくてはいけない。そして、様々な経験を経て、その上で僕を選んでくれるのであれば言うことはない。  碧衣との別れを決意した時に、僕は思った。  別れを告げるなら、碧衣と初めてのデートをし、碧衣の好きな珈琲(ラテ)を飲みに通った想い出深いこのカフェで、と……。 「君に固く誓う。約束するよ、碧衣。僕は必ず十年後の午後三時、ここで君を待っている。十年後どこで何をしていようと必ず帰ってくる。この街のこのカフェに。もっと大きな懐深い、君に相応しい男になって。碧衣、再び君に逢う為に」  僕の決意は固く、揺るがないのを悟ったのだろう。  碧衣はもう何も言わなかった。ただ、その大きな濡れ羽色の美しい瞳に涙をいっぱい溜めて僕を見つめる。  ああ、泣かないでくれ。碧衣。  僕の碧衣。  僕が生まれて初めて愛した、天女のように美しい碧衣……。  そうして僕達は別れ、初めての恋に終止符を打った。
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