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11.それから
その日は、早春の麗らかな午後だった。
僕は日曜日の今日、仕事の手を止め、この懐かしい場所に来ている。
午前中は卒業した高校を訪れて、校門の外からかつての学び舎を眺めた。校門は閉ざされていて部外者の立ち入りを禁じていた。
あれから十年──────
僕は早稲田の文学部に進んだ。碧衣と別れて腑抜けのようになり、暫く何にも興味を見出せなかったが、たまたま気の合った奴に誘われるま入部した文芸サークルで僕は、仲間と共に詩や小説を書くことを学び、創作活動に情熱を注ぐようになった。
そして、碧衣以外の女の子を愛する自信が全くなかった僕にもやがて新しい恋が訪れ、何人かの女性を愛し、いつしか大人になった。
卒業後は出版社に勤めていたが、数年前、フリーの小説家として小さな個人事務所を構えた。出版不況の昨今、無謀だと止められもしたけれど、幸い或る賞を受賞して固定ファンもつき、何より好きな道で食べていきたいという意思が勝った。
また、就職して人間関係につまずき、神経を患った僕には、会社にしがみつく生き方は無理だった。
碧衣以外の女性を愛してみてわかったことがある。
恋とは、刹那的なものにしか過ぎないということ。
どんなに愛しても、どんなに求め合っても。肌を合わせ、重ね合わせても全ては奪い合えない。
いつかは別れが。
終わりが訪れる。
永遠に持続する『恋』とは。
『愛』とはどんな形なのか。
それは未だ答えが出ない。
永遠の命題かも知れない。
カフェ『RAM』の僕と碧衣の密かな指定席だったかつての明るい窓際の奥のこの席は偶然にも空席で、僕はそこから窓の外を眺めている。
街並みは賑やかで、まだ重い冬のコートに身を固めている人々の中にも春めいた明るい装いがちらほら見受けられる。
学生、若いカップル、主婦にバリキャリ風女性……様々な人が行き交うメインストリートはあの頃と全く変わっていない。
碧衣。
君は今日、この日の『十年越しの約束』を覚えているだろうか……。
僕は、壁際のあのアンティークな振り子時計にちらりと目を遣った。
時刻はとうに十五時を回り、もう黄昏も近い。
フッと僕は息を吐いた。
きっと君は忘れている。
覚えていたとしても君は来ないだろう。
君に真に相応しい、僕以外の男と共に過ごし、そしてそんな過去(こと)もあったといつか思い出してくれれば、それでいい。
こんな僕との約束などに君の大事な人生を左右される必要はない。
残した苺のショートケーキの最後の一口を食べ、とっくに冷めてしまい苦みだけを感じる二杯目の珈琲を置くと、僕は暫し目を閉じた。
胸元の白いスカーフを揺らし、紫紺のセーラー服の膝丈の裾を翻す碧衣の姿が目に浮かんでくる。
碧衣。
女子高生だった碧衣……。
最も多感で傷つきやすい『十七歳』という大切な時を共有した碧衣。
君と同じ時代に生まれ、同じ空間、同じ時間を共有した僕は本当に幸せだった。
その奇跡のような偶然を必然と呼びたかった。
君と出逢ったことを『運命』と思いたかった。
僕が愛した、僕だけの碧衣……。
「碧衣……」
僕は夢を見ているんだ。
あの頃より長くなったであろう髪をシンプルにシニョンに結い、仕立ての良いグレーのパンツスーツの上から白いトレンチコートを羽織って。あの十七歳の聖なるイヴに僕が贈ったチープなリングネックレスを……それはもうメッキも剥げ色褪せているのに……あの頃と変わらず胸元にかけている碧衣が……。
けれど、あの頃よりぐっと大人びた碧衣が、僕の目の前に立っている。
「佐伯君」
あの頃と変わらない声で僕の名を呼び、あの頃と同じように控えめに微笑んでいるあの碧衣が……。
「遅くなってごめんなさい。今朝、臨時オペが入って。急いできたんだけど……もう待ってくれてないと思ったのに、来て良かった」
「碧衣。君はやっぱり外科医に」
「ええ。まだまだ新米医師だけど。救急科でバリバリ働いているわ」
うっすらと目に涙を浮かべながらそう呟いた碧衣は、あの頃と同じようにはにかみ、けれどその笑顔はあの頃以上に眩しかった。
ウエイトレスがお水を持ってオーダーを取りに来て、碧衣はやはりホットのカフェラテを注文した。
「ここのラテ、懐かしいわ」
運ばれてきたラテに口をつける碧衣の仕草はあの頃以上に洗練されている。それは、二十八歳という『大人の女性』に相応しい品格があった。
「僕も懐かしいよ……。卒業してからはずっと東京だからね。今朝の新幹線で戻ってきたんだ。碧衣は千葉大の医学部に進んだんだったよね」
「ええ。卒業後は付属病院で研修医になって、そのまま働いてるの。佐伯君は今、どうしているの?」
「僕は……」
僕はなんとなく口ごもってしまった。
小説家など、医師の碧衣に比べたらおよそ堅気な職業ではない。
しかし、そんな僕に碧衣は一言呟いた。
「佐伯君は『白石雄』として活躍してるのよね。……違う?」
その碧衣の言葉に僕は心底驚いた。
それは僕のペンネームだったから。
「どうして。それを?」
「彼、プロフィールは伏せているけどデビュー作で賞を取って、ちょっと話題になったでしょ。読んでみたの。……あれは」
そこで碧衣は口ごもった。
そう。あの小説『つたない愛のプレリュード』は僕の私小説で、作中の十七歳のヒロインは碧衣に他ならなかった。
「僕達の初恋を公にしてごめん……」
複雑な思いで僕は言った。
「ううん。あのラストの主人公のモノローグ。ああ、佐伯君はやっぱり私を想っていてくれているんだ、て……。そう思えたの。嬉しかった……」
碧衣はラテをもう一口飲むと、呟いた。
「私、この日の約束……。忘れたことなかった。ずっと信じてた。十年後にはここで佐伯君に絶対、逢えるって……。あの日から、ずっと」
「碧衣……」
僕は思わず碧衣の手を握ろうとして、しかしハッと我に返った。
僕はいったい何なんだ。
十年かけて碧衣に相応しい人間になると大きな口を叩いただけで、何も変わっていないのではないか。
碧衣は今や念願だった外科医として日々立派に働いているのに対して、この僕は……。
目の前には、大人の女性になった美しい碧衣……。
不意に、碧衣の上半身がぐにゃりと醜く曲がり、背後の壁に同化して消えようとしていく歪んだ映像が僕の脳裏を支配した。
まずい……!
僕は携帯しているピルケースから常備薬の頓服を三錠急いで取り出すと、氷が溶けてしまいぬるくなっているコップの水でがぶがぶと飲み込んだ。
「佐伯君……。どうしたの。大丈夫……?」
心配そうに碧衣が僕の顔を見つめる。
「……はは。見ての通りだよ。僕は。十年かけて君に相応しい人間になると言いながら、このざまだ。碧衣。君には……僕なんかじゃない。もっと君に……」
「佐伯君」
その時、碧衣はラテのカップを卓上に置くと、薬の副作用で震える僕の両手を優しく掌で包み込みながら言った。
「私達……十年離れていたわよね。連絡を取り合うでなく、互いの消息も知らずに。でも……。私達は『今』、『ここ』にいる。これはもう『運命』なんじゃないかな」
その微笑みは慈愛に満ちた聖母のように清らかで。
やはり、碧衣はあの頃のまっさらな碧衣と変わっていない。
「結婚しよう。碧衣」
僕は一世一代の賭に出た。
僕が碧衣を本当に幸せに出来るのか。それはわからない。けれど、僕はあの頃と変わらず碧衣を愛している。
その気持ちに偽りはなかった。
その十年越しのプロポーズに、碧衣は頬を紅潮させ、俯き加減で僕を見つめる。
しかし確かに。
こくりと碧衣は、頷いた。
「碧衣」
「佐伯君……」
余計な言葉は要らない。
僕達は通じ合っていた。
十代の少年少女の心で。
僕はこの時、十七歳のあの輝いていた頃と同じくらい人生で一番幸福だった。
その後に待ち受けている困難は予期し得なかったけれど──────
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