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⑿.仮初めの恋
抱えていた原稿が一段落し、早起きした朝。
じゃがいも・人参・玉ねぎ・キャベツ・ベーコンを一口大に切り、ホールトマトを使って簡単な具沢山のミネストローネを作りながら、僕はふわとろのクリーミーなスクランブルエッグも作った。
仕事へ行く支度を整えた碧衣が、専用マシンでエスプレッソを淹れ、温かいスチームドミルクのカフェラテを作る。
僕は六枚切りのトースト一枚に碧衣の好きな『LE・CORDON・BLUE』のブルーベリージャムを塗って、エッグとスープカップを一緒に乗せたワンプレート・ブレックファーストを彼女の席に置いた。
「ありがとう。あなた」
そう言いながら碧衣は、目の前に僕のカフェオレ・ボウルを置く。淹れ立ての深煎りのラテの香ばしい匂いが、ダイニングルームいっぱいに広がる。
「碧衣。この前言ったこと……」
僕は新聞に手を伸ばし、さもそれまでの会話の続きのような演出を装い、その言葉を口にした。
「あ…。ごめんなさい……」
碧衣もそれは気づいている。わかっている。
それなのに、僕たちは根競べをする。
そして、彼女は口ごもりながら言葉を探す。
「あの……、どうしても時間が取れないの。毎日のように大きな手術(オペ)が入るし……。とにかく忙しいのよ」
視線を僕から逸らし、目を伏せる。
その表情は美しいが、憂いを含む。
「それに……」
と、呟きかけた碧衣に僕は言った。
「子供は自然と授かるまで待てばいい、かい」
それはこの間、碧衣が繰り返している言葉だ。
碧衣は複雑そうに黙ったまま、白磁にハンドペイントで青い薔薇模様が描かれているお気に入りのカフェオレ・ボウルをことりとテーブルの上に置いた。
食欲のない朝も、碧衣はその器でミルクたっぷりのカフェラテを飲むことは好んでいる。
「もっと食べないと体が保たないよ、碧衣」
心配する僕に、碧衣はミネストローネを少し啜り、トーストを半分ほど囓っただけで、
「行ってきます」
そう言い残して病院に出かけて行った。
後には広いリビングに僕と、僕の溜息だけが残された。
◇◆◇
碧衣はがむしゃらに働いていた。
寝食も忘れて、無我夢中で目の前の患者に、難解な手術に向き合っていた。
自分は一生、『医師』として生きたいと。
それはまっすぐな瞳で日々、僕に語った。
そんな碧衣はなかなか僕の子供に恵まれなかった。
不妊治療を受けるように僕はさりげなく碧衣を諭したが、多忙な彼女にその時間(ヒマ)はなく、そもそも僕の夜の求めに応じる余裕もろくになかった。
碧衣と僕との間の僕達の血を引く子供が欲しい僕と、子供は授かるまで自然に任せればいいと言う碧衣との間には微妙な温度差があった。
だからと言えば言い訳だろうか。
ふとした偶然で、僕は碧衣以外の人妻と恋仲になった。
クラブで僕が一人で飲んでいた時、初めて出逢った彼女は、シンプルながら特別感のある白が印象的なコクーンワンピースに黒のレザーブルゾンを羽織り、黒い『Valextra』のバッグをさりげなく提げていた。
そんなハイブランドがよく似合う彼女は僕より年上なのに、匂い立つような美しさがあった。
オーナー中小企業の社長夫人とおぼしき彼女は豊満な肉体の持ち主で、妖艶でミステリアスという言葉がピタリとくる、碧衣とは全く違うタイプの女性だった。
互いのプライベートには干渉しなかった。彼女に子供がいるのか、普段何をしているのかも知らなかったし、僕も自分の詳しい素性は明かさなかった。
ただ、互いに家庭を持っていること。そして、どちらも自身の家庭を壊すつもりは毛頭ないことだけを知っていた。
それでも僕達は、それは時に激しくお互いを求めあった。素肌を晒し、汗を滴らせ、何もかも我を忘れて貪りあった。
達する瞬間。僕の頭は真っ白になり、あれほど愛する碧衣のことを忘れ、彼女の躰の上に崩れ落ちる。
僕達は互いに身も心もを委ね重ねる。
しかし、僕が満たされるのはその一瞬でしかなく、それは決して永続しない。
どんなに求めても。
どんなに肌を合わせても。
それは偽りでしかない仮初めの恋に過ぎなかった。
◇◆◇
彼女と関係を持って約半年。
その夜も僕は彼女とホテルのバーで落ち合った。
薄暗がりの中、カウンター越しにバーテンダーがグラスを磨いている。店内は濃い闇の空気感に満ち、客はまばらで、密やかな雰囲気で静かに飲んでいる。
僕達に会話はなく、僕はドライ・ベルモットの辛口のマティーニを、彼女はレッドチェリーの彩る赤いマンハッタンを注文した。
配合したリキュールを入れた器をバーテンダーが慣れた手つきでシャカシャカと振り、カクテルを作る。
「どうぞ」
低い声で彼は、目の前にグラスを置いた。
それを手にしようとして、ふと。
僕達はお互いの顔を見て、つい失笑した。
それは図らずも漏れた乾いた笑いだった。
「どうして私達、ここにいるのかしらね」
彼女は呟いた。
「こんなこと続けていても……」
長い睫毛をした影を湛える淋しげな彼女の瞳が見るその言葉の先が、僕にも見える気がした。
「出よう」
僕はマティーニを一口で飲み干し、勘定書きを手にすると席を立った。マンハッタンには口をつけずに彼女も無言で僕に従った。
いつもなら僕が支払いを済ませている間に彼女は部屋へと先に行く。
しかしその夜は、彼女はバーの入り口にひとりぽつんと佇んでいた。
「駅まで送っていくよ」
暗黙の了解で僕は言った。
「それなら、少し歩きましょう」
彼女はそう言い、僕達はホテルを出た。
夜風に吹かれながら僕達は、季節外れの桜並木の静かな散歩道を肩を並べて歩く。
僕と彼女の間には何もない。
情も責任もしがらみも……。
彼女のあらぬ姿を思い浮かべてみても、僕はもはや何も感じなかった。
「ここでいいわ」
駅まで後数分という場所の一本の大きな桜の樹の下で彼女は立ち止まると、僕を見つめた。
彼女の仄暗い闇のような漆黒の瞳に吸い込まれていき、僕達は無意識に抱き締めあうと熱い口づけを交わした。貪るようなキスではなかったが、躰を重ねるよりも深い、それは初めて本当にお互いを欲するキスだった。
どちらからともなく躰を離した後、彼女は艶やかに笑みながら呟いた。
「ありがとう。楽しかった」
その華のような微笑みを残して。
彼女は僕の前から去って行った。
最後の接吻はほのかに甘く、切なくて僕はその場に立ち尽くし、夜の闇へと消えていった彼女の後ろ姿をいつまでも見つめていた
それから暫くの期間。
僕の口唇にはその時の口づけの温もりが残っていた。
けれどそれもやがて儚くなり、いつしか彼女の姿も名前も思い出せなくなった。
何が本当の愛で、幸福なのか。
未だに僕にはわからなかった。
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