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13.あなたに逢えてよかった
そんな結婚生活数年目のある晩のこと。
トントンと書斎のドアを叩く音がした。
「おかえり、碧衣」
いつものように夜遅く、碧衣が帰宅してきた。
デスクから振り返ると、碧衣は部屋の入口に立ち尽くしている。
週一日の休みもほとんど取れないほど仕事が忙しい碧衣は最近、とみにやつれてきている気はしていたが、今夜の碧衣の顔色はいつもより更に悪く見えた。
「碧衣。いくらやり甲斐があると言っても君は完全にワーカホリックだよ。もうずっと食も進んでいないし、どこか体調が悪いんじゃないか」
その僕の言葉にもしかし、碧衣は思い詰めたように黙ったまま口を開かない。
僕は不審に思い、
「仕事で何かあった?」
と、その場に佇んだままの碧衣の側に近寄って言った。
「碧衣?」
「あなた……」
碧衣は僕の胸にその青白い小さな顔を伏せて呟いた。
「私……。子宮がんにかかった」
◇◆◇
「──────あ…なた……」
「碧衣」
僕の顔を碧衣は弱々しい瞳で見た。
術後麻酔から目が覚めるのを僕は、病室の碧衣の傍らに付き添い、待っていた。
広汎子宮全摘手術……辛い選択をせざるを得なかった。ホルモン療法で子宮を温存する方法もあったが、癌は悪性で転移するリスクが高く、僕が強く反対した。
「あなた……。ごめんなさい……」
碧衣はベッドに横たわったまま口唇を噛みしめ、声を、躰を震わせながらそう言った。
「何を謝るんだ、碧衣。君が一番苦しいんじゃないか」
「あなたの子供を産めなくなった……」
ぽつりと碧衣は、虚ろに呟いた。
「子供より何より碧衣。僕は君の方が大事だ」
僕は心の底から力強く、碧衣の掌を握りしめながら言った。
「生きてくれ。碧衣」
それは、僕の何よりの祈りだった。
それなのに碧衣は、ただ繰り返す。
「ごめんなさい……あなた……」
碧衣はその夜、いつまでもさめざめと泣き続けた。
◇◆◇
医師という職業は言うまでもなく激務だ。それでなくても目の前の瀕死の患者に日々真摯に向き合い、自身の健康が後回しになった碧衣に落ち度はない。
しかし、医師でありながら自分の病変を見落とした碧衣はその事実に酷く動揺し、何より自分たちの子供を望めなくなったことを、この僕のせいでショックを受けた。夫婦生活を僕が望むほど満足に営んでいなかったことを碧衣は深く後悔しているようだった。
そして、女性が女性である為の子宮をなくすというその辛さ。それを僕はただ想像するしかできない。
碧衣は手術後約一ヶ月で退院し、程なく日常生活に戻ったが、リンパ浮腫、排尿トラブルなど後遺症に苦しんだ。
また、夜の生活にも影響があったが、僕はもはや碧衣が碧衣でいてくれるだけでよく、僕達は以前より夜の時間を多く持つようになった。
「あなた……」
蒼く透明な静寂に包まれた時。
素肌の碧衣が僕の胸に縋り、むせび泣く。僕はそんな碧衣の黒く豊かな長い髪を優しく指でといて梳く。僕達はただ固く抱き締めあいながら、眠りへと落ちてゆく。
永遠に持続する『恋』とは。
『愛』とはどんな形なのか。
何が本当の愛で幸福なのか。
かつての僕の果てなき命題の答えは出ている気がした。
あの『十七歳』だった頃の心のまま。
僕は、碧衣が碧衣のまま僕の側に居てくれさえしたらそれでいい。
それ以上は何も望まない。僕と碧衣が共にずっと在りさえすれば。
唯それだけで僕は以前より遙かに満たされていた。
◇◆◇
子宮がんの五年生存率は約25%。僕はその四分の一の確率に賭けていた。
しかし──────
恐れていた事態がとうとう起こった。
子宮から肺や肝臓への癌の遠隔転移が見つかり、癌は確実に碧衣を蝕んでいた。
そんな碧衣を僕は懸命に必死で支えたが、もはや末期に達した癌を前にして僕はただ無力でしかなく、碧衣の命の灯はもはや尽きるのも時間の問題だった。
◇◆◇
碧衣はここ一週間、眠っている時間が長く、話しかけてもあまり反応がない。呼吸も不規則になってきている。
それは、信じたくない『最期の時』が迫り来ていることを物語っていた。
僕は碧衣の側で、
「碧衣。僕はここにいるよ」
と、出来る限り繰り返し碧衣に話しかけた。
「……あな、た」
その時、碧衣は僕の語りかけに目を覚ました。
「碧衣」
「あなた……」
碧衣はか細い声で呟いた。
「ごめんな、さい……」
碧衣の瞳には涙が溢れている。
「あなたを…遺していく。私を……」
「碧衣! 希望を捨てちゃダメだ。思い出してくれ。君と僕が『十年越しの約束』という奇跡のような再会を果たしたことを。そんな『奇跡』が、きっと……」
それ以上は言葉にならない。
「あなた……に逢えて、よかった」
碧衣は微かに笑んだが、そのまま碧衣の意識はまた混濁していった。
◇◆◇
「覚悟なさって下さい」
院内は暖かい暖房が入っているが、外はしんしんと冷えている冬の日。
いよいよそう担当医に告げられ、僕は帰宅せずにその夜ずっと碧衣の病室に詰めていた。
翌朝、まだ空も白み始めない頃、碧衣の容態が急変した。
「碧衣! 碧衣!?」
昏睡状態の碧衣の反応はない。
碧衣の名を僕は何度も呼んだ。
「碧衣……!」
神に祈るような気持ちで僕は彼女の名を繰り返した。
そして。
僕の必死の呼びかけに碧衣は一瞬、意識を取り戻した。
「碧衣! しっかりして!碧衣……!」
僕は両手で碧衣の左の掌を。
初めて碧衣の手を握った時と同じ左の掌を強く握り締め、懸命に語りかけた。
しかし、碧衣の瞳から段々と光が失われていく。
"佐伯君……"
薄く目を開けた碧衣が振り絞るように。
懐かしい……。
十七歳のあの頃と同じノスタルジックなその呼び方で、碧衣は僕の名を呼んだ気がした。
「碧衣……!!」
息を引き取る間際に。
碧衣の描いた微かな口唇の動きに、僕は碧衣の言葉を感じた。
"ありがとう……佐伯君"
その言葉を遺し、うっすらと微笑んで……。
僕と碧衣が初めての口づけを交わした季節。
僕は最後の口づけを、碧衣と重ね合わせた。
碧衣の頬から口唇から温もりが消えていく。
碧衣の顔が段々と土気色へと変化していく。
嘘だ。
嘘だ。
嘘だ。
これは悪い夢だ。
碧衣は、きっとまた目を覚まして笑うんだ。
これは僕をちょっとだけ困らせる悪戯だと。
碧衣…… 碧衣……
僕が愛した碧衣……
僕だけの碧衣……!
初雪が地上を白く染め上げた冬の朝、碧衣は僕に看取られて天国へと旅立って行った。
僕をこの世に独り残して……。
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