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14.赦しの涙
碧衣を亡くしたら僕は周囲を構わず身も世もなく泣き叫ぶことと思っていたが、本当に悲しい時、人は泣けないものだということを、碧衣を亡くして初めて知った。
ぽっかりと心に穴が空き、悲しいと感じるのに涙が出ない。
碧衣の両親、特に愛娘二人ともを亡くしてしまった碧衣の母親は切り裂くような悲鳴に近い泣き声をあげるのに、僕は唯、呆然と碧衣の亡骸を見つめるだけだった。
碧衣の生前の意向があり、碧衣の葬儀は僕と碧衣の両親に祖父と二人の祖母、僕の姉と両親に祖父母……両家の家族とごく近しい親族だけで営まれた。
通夜の夜、僕は一晩、寝ずに碧衣の遺体が安置されている部屋の棺の傍らで過ごした。
ラジカセを持ち込み、碧衣が愛聴していたダニエル・ラヴァルの弾く『アラベスク』の入ったシャミナーデのピアノ小品集を繰り返し流し、碧衣の想い出を忍んだ。
棺の中には生前、碧衣が愛用していたあのアンティークの青い薔薇模様のカフェオレ・ボウルを入れ、遺体の上には病院で碧衣が着ていた白衣をかけた。
碧衣は、もはや寝返りを打つことさえ出来なくなってからも「メスをもう一度持ちたい」と譫言のように繰り返していた。
彼女は本当に志の高い優秀で立派な医師だった。
そんな碧衣を僕は心から誇りに思う。
碧衣をひっそりと送った日の夜。
数日ぶりの我が家の寝室のベッドに僕は寝転んだ。
ここ暫くの疲労が澱のように溜まっている。ゴロリと左向きに躰を横にしながら、今更のように自分の右側に碧衣がいないことに気付く。
結婚する時に碧衣がこだわって選んだ照明付きの黒いフランスダブルベッド。でも、そのベッドで碧衣を抱くことはもう二度と出来ない……。
自分自身を抱き締める僕の両腕は、碧衣の躰の分だけ隙間風を感じている。
碧衣……
碧衣……!
僕は孤独に晒され、碧衣の名を心の中で絶叫し、碧衣を求め足掻き苦しむ。
『時間』が悲しみを癒やしてくれると人は言う。
本当にそうなんだろうか。
碧衣を永遠に失ったこの喪失の悲しみが癒える日が本当に来るというのか。
泣くという行為は、遺された自分を憐れむ余裕があればこそ。志半ばで天に召された碧衣を思えば想うほど、僕は泣くことが出来なかった。
そんな自分は酷薄な人間だろうかと、亡き碧衣に問うてみたかった。
◇◆◇
碧衣のいなくなった我が家の書斎で一人書いていると、夜遅くひょっこりと碧衣が仕事から帰ってくるような錯覚に囚われた。
”あなた、ただいま”
そう笑みながら帰ってくるような……。
碧衣がいなくなった3LDKは僕一人で住むには広く、又、その家で暮らすことは碧衣をいつまでも忘れがたくすることだと知り、僕は程なく知人の勧める土地の物件へと転居した。
都会の喧噪から離れた住宅街に住居兼仕事場を構えて、僕は執筆に没頭した。
深夜も早朝もなく、起きている間中、食事を摂ることも寝ることも忘れて必死に書いていた。
書いている時。
僕は物語の主人公になり、経験したことのない新たな恋をする。
碧衣ではない別の魅力的な女の子と恋に堕ちる。
彼女は、虚像だと知っていたけれど……。
◇◆◇
「お疲れさまでした。今回も白石先生らしい素晴らしい作品です」
担当の編集者が僕の仕事場を訪れ、書き上げたばかりの原稿に目を通し、ふと何気なく言った。
「先生もたまには息抜きに外へ出られたら如何です? このマンションの隣のカフェ、セルフですけど結構、珈琲が美味しいんです。パンも自家製ですし、先生のお好きなカフェラテもあります。いつも差し入れしているパンとラテはその店のものですよ」
「へえ。何と言うカフェなんですか?」
「えーと、『PRIMEPVERE』です」
「プリムヴェール……。フランス語だな」
カフェか……。
そう言えば、長いこと外で珈琲を飲むこともない。
久しぶりに外の空気を吸いに行ってみようか。
大きな仕事を片付けてひと息ついた僕は、何となくそのカフェに興味をひかれた。
◇◆◇
マンションの隣のカフェを訪れた僕は、白抜きで『PRIMEPVERE』と書かれた黒いプレートのかかった扉を開けた。
「いらっしゃいませー」
シンプルな動きやすい私服の上にストライプの臙脂色の胸当てエプロンをかけたウエイトレスが、元気良く声をかける。
挽き立ての香ばしい珈琲の良い匂いが漂っている。
そして、焼き上がったばかりの何種類かのパンを店員が、壁際の棚に手際よく陳列している最中だった。
店内はそう広くはなく、木製のテーブルは『RAM』のアンティークとは比べものにならないが、感じは良い。まだ十二時を過ぎたばかりのランチタイム中で、席は三分の二ほど埋まっているが騒がしくもない。
クラシカルで重厚な『RAM』とは全く違うが、明るくカジュアルな雰囲気のこのカフェは碧衣も気に入るだろうとそんな気がした。
何をオーダーしようかとレジのメニューを見て、僕はハッと意識を奪われた。
オムライス……。
料理はあまり得意ではなかった碧衣が、それでも好んで作ってくれた手料理の一つだ。
準セルフカフェだということはすぐにわかった。
僕はオムライスとホットのカフェラテのオーダーをレジの店員に伝えランチ代を払うと、店員が渡したラテのカップと番号札の乗ったトレーを持って店の奥の隅の席に座った。
「お待たせしました」
五分ほど経って、ウエイトレスがオムライスを僕の目の前に置くと、番号札を回収して厨房の方へ戻っていった。
目の前には焼きたてのふわとろのオムライス。
ケチャップをスプーンで薄くのばす。
そして、恐る恐るその赤いチキンライスと黄色いとろとろの半熟卵を口へと運んだ。
どこか懐かしいトマトケチャップソースの味がした。
僕は一口食して、思わず胸を衝かれた。
その瞬間。
僕の瞳から一筋の涙が流れて、落ちた……。
「碧衣……」
碧衣を看取ってからなかなか流せなかった涙が心地よく僕の頬を伝ってゆく。
それは、もう泣いて忘れていいのよという碧衣からの赦しのようだった。
流したくても長いこと流せなかった涙は止め処なく流れ落ちてゆく。
もう一匙、口へ運ぶ。
泣きながら食す僕にそのオムライスは、少し甘くてしょっぱい味がした。
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