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2,ほころぶ笑み
「おい、またか」
「ああ。すげえな」
職員室前の掲示板の前に生徒が群がって、口々に話している。
一学期末試験の結果が張り出されているのだ。
「橘って無敵じゃね?」
「可愛いしな」
「お前、結局そこかよ」
下卑た笑い話で盛り上がっていることを彼女は知っているだろうか。
彼女が試験結果を見に来ることは一度もない。
二学年のトップは彼女。
彼女は県下でも有数の進学校である我が校に首席入学して以来、その首位の座を一度も他の生徒に譲ったことがない。
物化数学の理数系が特に強く、数学は毎回満点。英語の成績も良い。彼女は帰国子女ではないと思うが、彼女の読み上げる課題図書のヘミングウェイ『陽はまた昇る』の発音はネイティブ並の流暢さである。
そんな彼女の志望大学は、当然のように東大だ。
全国模試の公式一覧でも常連の彼女は、志望校が名前と共に毎回載る。その為、入学したての頃からその名と共に「橘さんは東大志望!」と皆に知れ渡っている。
東京の大学に進めば大学生になっても彼女と近しいキャンパスライフを送れるかも知れない。
そんなことを僕は、夢想するようになっていた。
◇◆◇
これはどうしたことだろう……。
僕は妙に最近そわそわしている。
ぐずつき長かった梅雨も明け、夏休みに入った。
教室は冷房が効いていることもあり、ほとんどの生徒がお盆前まで行われる学校の課外授業を受けている。
彼女は上級数学と上級英語と物理の授業を選択していた。僕も一般数学と上級英語に世界史を選択し、英語では彼女と同じクラスになった。
その始業前の自由時間。
ふとした瞬間に、たまに彼女と目が合うようになった。
それは僕の気のせい、自意識過剰だろうか。
彼女は恥ずかしそうに視線を逸らすけれど。
僕には彼女の胸中はわからない。
僕のことをどう思っているかなんてわからない。
それでも、彼女を愛しいと想う。
そして或る日、遂に『奇跡』が訪れた。
つい彼女に見とれていた僕の視線と、いつものように本を読んでいる彼女がふと顔を上げた瞬間、僕の視線と彼女の視線とがまた重なり合った。
彼女は初めて目を逸らすことなく、三秒間、僕の不躾な視線に堪えていた。
次の瞬間。
にっこりと花がほころぶように華やかに、笑んだ。
その笑顔が僕は忘れられない。
一生忘れることはないだろう。
十七歳……高校二年の夏。
陽射し眩しく、空は青く、鳥は囀り。
真夏の灼熱の太陽を浴びながら、僕は一人ただ、彼女を想う。
焼けるアスファルトの上を漂う白い蜃気楼の中に僕は彼女の幻影を見る。
静かな午後の教室の中で僕は彼女の横顔を見つめながら、彼女を想う。想い続ける。
話しかけるわけでなく、アプローチするわけでもなく、ただただ想う。
その時間は濃く甘く、そして長く切なく愛しかった。
◇◆◇
夏休みも終わり、二学期初日の朝。
僕はいつもより少し早めに登校し、自分の席でなんとなく周囲を伺っていた。
「碧衣、おはよ! 久しぶりぃ」
「おはよう。花梨ちゃん、帆花ちゃん」
彼女が教室に入ってきて、親しい女友達に囲まれた。楽しそうに会話を交わしている。
僕は課外授業以来、約三週間ぶりに元気な彼女の姿を認めて、言いようもない嬉しさがこみ上げてきた。
カットしたのだろうか。彼女の前髪は少し短くなっていた。でも相変わらず、いや、前にも増して愛らしい。
彼女は暫く友人とのお喋りに興じていたが、やがて自分の席に座り、いつものように本を取り出した。
その時だった。
ふと。
また、彼女と目が合った。
彼女は一瞬、目を逸らす。
けれど次の瞬間。
ゆっくりと視線を僕の方へと遣った。
そして、彼女は。
秋の風に揺れる秋桜のように、やはり控えめな笑みを僕に返した。
その笑顔は僕の心を一瞬にして捉えた。
その魅力的な笑みに、心拍数が上がる。
どうしていいかわからない。
「おい。清志郎」
「……あ。友希」
「何固まってんだよ」
「いや」
友希に一瞬気を取られた。
また急いで彼女を見たらもう彼女は読書に耽っていて、さっきの笑みが本物だったのかどうか、僕には確信が持てなかった。
◇◆◇
「だから……ごめんなさい……」
放課後。
帰ろうと下駄箱まで来たとき、彼女の声がした。
彼女の前には、赤いニキビ面の背の高い男子がいる。
僕は無意識でとっさに下駄箱の陰に隠れた。その成り行きを見守る。
「でも、橘。つきあってる奴、いないんだろう?」
「それは……」
「俺とつきあってくれよ」
そいつは、馴れ馴れしく彼女の左腕を掴んだ。
「は、離してっ……」
彼女の小さな悲鳴のような声が漏れた。
「橘さん! 悪い。遅くなって」
僕はとっさに彼女の後ろから声をかけた。
「さあ。帰ろう」
彼女の左手を強引に掴む。
「悪い。橘さんは僕と付き合ってるから」
僕は彼女を庇い、彼の真正面に立った。
必死の思いで僕は、そいつの顔を睨む。
彼女を守る。
その一心で。
彼はぎっと僕を睨み返し彼女の顔を伺うが、彼女は彼から目を背け、僕の背中に隠れようとしている。
ちっと舌打ちをして、そいつは僕達の前から立ち去った。
「佐伯君……」
「た、橘さん……大丈夫?」
よほど怖かったんだろう。
彼女は硬直したまま、暫く動かなかった。
「あ…、ごめん」
僕はその時、握っている彼女の左手を意識し、離そうとした。
しかし。
彼女は、ぎゅっと僕の手を握り返してきた。
柔らかいすべすべとした彼女の皮膚の感触、温もりを感じて僕はたじろぐ。
「あ、ありがとう……」
彼女が、目に涙をいっぱい浮かべている。
「橘さん。泣かないで。僕が泣かせているみたいだ」
少し狼狽えるように僕は彼女にそっと声をかけた。
「ごめんなさい……」
小さく呟くと、彼女は右手でこしこしと瞳の涙を拭う。
「大丈夫?」
彼女はまだふるふると躰を震わせている。
「……橘さん。家まで送ろうか?」
「え……?」
「い、いや。出過ぎたことを言ってごめん」
僕はつい庇護欲から滑り出た自分の言葉を後悔した。
でも。
守って上げたい。
そんな本能的な気持ちを彼女は呼び起こす。
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