3.心地よい空気

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3.心地よい空気

 そして図らずも。  信じられないことに彼女は、またぎゅっと僕の手を握り返してきたのだ。  僕はどうして良いかわからない。  ただ、温かい彼女の掌だけを意識する。  暫し彼女はそのまま俯いていたが、 「私の家は屋敷町(やしきまち)の方だけど……佐伯君は?」  と、小さな声で尋ねてきた。 「僕はその隣町だよ。帰る方向は多分同じだ」  僕は彼女の手を離して靴を履き替えると、 「さ、帰ろう」  と、努めて優しく声をかけた。彼女を怯えさせたくはなかった。    僕達は、並んで歩き始めた。  あの憧れの彼女と一緒に下校している。  そのシチュエーションがまだ僕にはピンとこない。  これは夢なんじゃないか。  或いは、何かの罰ゲーム。  そんなことは成り行きから言ってあり得ないけれど。  僕より20㎝くらい背が低いのかな……。  黙って僕の左隣を歩く彼女をそっと斜め下に見つめながら、身長178㎝の僕は思う。  華奢な肩だ。  女の子ってこんなに小さくて、壊れやすそうな存在(もの)なのかな……。 「橘さん……」 「え、何?」 「いや……」  僕のことどう思ってる?……なんて、間違っても聞けるわけがない。  彼女はただ俯いて、黙って歩いている。  今、何を考えているんだろう。  そう思うけれど、彼女の気持ちなんて知りようもない。  誰か好きな(ヤツ)、いるのかな……。  そんなモヤモヤした感情が沸々とわき上がってくる。  僕はそんな邪念(こと)は気取られないよう気をつけながら、わからないように彼女の歩幅に合わせて歩いている。 「佐伯君……」 「え?」 「う、ううん……」  彼女は言葉を濁したが、ぽつりと呟いた。 「いつも本、読んでるわよね」 「あ、ああ」  それ以上の会話には繋がらなかった。  君はいつも何読んでるの?……その一言が言い出せない。  ああ、なんで僕はこうも弱気なんだ。  これほどもどかしい思いはしたことがない。  でも。  何だろう。  この雰囲気は……。  彼女もまたこんなシチュに慣れていないだけで、僕のことを嫌ってはいないような気がする。  それは僕の思い過ごし。単なる自惚れだろうか。  黙々と歩きながら、そんなことを思う。  国道沿いの同じ路線のバスを待っている間も会話はほとんどなかったが、でも、その空気感は不思議と僕には心地よかった。  ◇◆◇ 「おはよう」 「ぉはよ」  次の日の始業前、教室内が次第に活気づいていく。 「佐伯君」  後ろから声をかけられた。振り返る。 「あの。昨日は、ありがと……」  彼女が目を伏せたまま、小さな声で呟いた。  何か口にしようとしながら、お互い言葉にならない。  しかし、遂に彼女が遠慮がちに口を開いた。 「あの……。今日も一緒に帰らない?」 「え?」 「ううん! 昨日みたいに家まで送ってくれなくて良いの。ただ同じバスだから、下車するまで。一緒に……」  彼女が真っ赤な顔で言った。 「放課後、靴箱で待ってるから」  その一言を残して、自分の席に座ると教科書に目を落とす。 「おいおい。あの橘さんと良い感じじゃん」  僕の背後から僕を羽交い締めしながら、友希がにやけた声を出した。 「何かあったのか?」 「何にもないよ」 「嘘つけ」  そのまままたプロレスごっこへと変化する。  友希とふざけあいながら、それ以上のツッコミがないことに僕は安堵した。  ◇◆◇  本当に、彼女は靴箱で僕を待っているんだろうか。  今、鞄を持って教室を出て行ったけれど。  もし待っていてくれるなら、待たせるのは悪いな。  放課後、そんなことを考えながら僕は席を立とうした。 「おい、清志郎」  その時、友希に呼び止められた。 「(おぎ)センがお前のこと呼んでるぞ。志望校希望書を提出しに職員室に来いって」 「え? 今から?」 「ああ」  どうしよう。彼女を待たせることになる。  志望校……。僕も彼女と同じように東大を目指そうか。僕の成績ならギリギリだろうか。でも、そんな不純な動機でまぐれ合格しても、充実したキャンパスライフを送れるとは思えない。それに、彼女が本当に東大に進むのかどうかもわからない。  そんなことを考え迷い、志望校希望書を出しそびれていた。  なんにせよ、職員室に行かなければ。   「ああ、佐伯。お前の志望校はどうなんだ」  五十代の古典担当で我が校でもベテラン教師である担任の荻野(おぎの)先生は、几帳面に整理整頓した職員室の自分のデスクから顔を上げると僕にそう問いかけた。 「ええと……」  僕はごくりと喉を鳴らすと、思い切って口を開いた。 「東京大学の文科Ⅰ類を」  考えています、と言う前に荻野先生の微妙な雰囲気を察して、僕は口を噤んだ。 「うーん、お前の成績で文Ⅰか……」  黒縁眼鏡のつるを親指と人差し指でつまんでクイと上げながら、先生は机の上のパソコンを操作し始めた。 「一学期末の模擬試験。東大の合否ランクで言えばC判定というところだな。佐伯。お前はどうも理系科目が弱い。特に数学でもっと点が取れないとかなり厳しいぞ。我が校から東大合格者を一人でも多く出したいところだが……。お前なら早慶智……トップ私大はどうだ?」  先生の言葉は現実的だった。  他の滑り止めの大学も含め、各科目の偏差値や受験科目などをよく分析しながら、詰めて話し合う。  そして、第五志望校まで決めて明日提出するように念を押され、ようやく解放された。  職員室を出たのは午後五時過ぎだった。  彼女が教室を出てから小一時間経っている。  さすがに待ってないよな。  ていうか、待ってたらマズいだろ。  そう思いながら靴箱まで来て、やはり彼女はいない。  やっぱり……。  がっくりきながら、靴を履き替える。 「佐伯君」 「え……?」  顔を上げると、そこには……。  靴箱の陰に彼女が立っていた。
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