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4.ずっとあなたが
「た、橘さん?! どうして……」
「待ってたの。きっとまだ下校していないからここに来ると思って」
そう言って、はんなりと笑んだ。
「ご、ごめ……。荻野先生から職員室に呼び出しくらって」
僕は慌てて彼女のもとに駆け寄る。
「私こそごめんなさい……」
「何で謝るの」
「なんとなく」
彼女はまた俯いて小さく呟いた。
何に対して謝っているのかわからなかったけれど、彼女のその控えめな態度は僕には酷く好ましい。
僕達は黄昏の空の下、昨日と同じように並んで歩いた。
国道沿いのバスを待ち、同じバスに乗る。
バスの中は空いていた。
ほとんどの乗客が座っていて、しかも空席の方が多い。
けれど僕達は、バスの後ろの方に並んで立っていた。
白い吊り革が揺れる。
窓の外をいつもの風景が通り過ぎてゆく。
ああ、どんな会話をすればいいんだろう。
僕には、彼女のような素敵な女の子とどう時間を過ごして良いのかなんてわからなかった。
「あ、次のバス停だ」
僕が下車するバス停へとバスが近づいている。
「橘さん、また明日」
そう言って僕はバスを降りようとした。
すると、予期せぬ展開が起こったのだ。
「た、橘さん……?!」
ブロロォー……。
緑色の車体の路線バスがバス停から離れていく。
バス停に残されたのは僕と僕の後に下車した彼女と。僕達ふたりだけ。
彼女が僕の紺の制服の裾を掴んで俯いている。
僕はこの状況をどう理解して良いかわからなかった。
「佐伯君……。私とつきあって」
「え?」
「ずっとずっとあなたのことが好きだった」
彼女の品の良い紅く小さな口唇から信じられない言葉が溢れ出た。
「あなたのことが、ずっと……」
俯いた彼女の瞳から一粒の涙が零れ落ちた。
その雫はダイヤモンドより美しいと思った。
◇◆◇
「お前ら、また一緒に勉強かよ」
放課後、彼女と二人で宿題を片付けていると、『5』のナンバー入りの赤いユニフォーム姿の友希が教室に入ってきて、そう冷やかした。
「友希。男バス、どうしたんだよ?」
「ああ、忘れ物したからちょっくら抜けてきた。またすぐ戻るぜ」
友希はそう言うと突然、僕の肩を両手で鷲づかみした。
「橘さんのこと、大事にしろよー」
「言われなくてもわかってるよ」
「かーっ! 妬けるねえ」
思いきりおどけた声を出す友希。
「まあ、しっかり頑張れよ」
友希はその一言を残して、教室を出て行った。
彼女とはあの日以来、放課後の時間を共にし、一緒に下校する仲になっていた。
クラスであまり目立ちたくない彼女の気持ちを考慮して、オープンに僕達の仲をひけらかすことはしなかったのに、噂というものは恐ろしい。僕と彼女の仲はいつの間にか他のクラスにまで知れ渡っている。
学年トップの成績、ルックスでも折り紙付きの彼女を射止めた僕を友希はえらく羨ましがった。
ある日、彼女の一番の親友・池上花梨が、本を読んでいる僕の机の前までつかつかと歩み寄ってきて言った。
「碧衣を泣かせたら、絶対許さないんだから」
彼女のその一言に、僕は『橘さんの彼氏』として男の責任のようなものを意識した。
しかし、他のクラスメイトも教師(せんせい)も概ね温かく見守っていてくれる。そのことを僕は有難く思っていた。
◇◆◇
その夏の暑さもようやく収まり、涼やかな秋風が吹き抜ける頃。
彼女と一緒にいつものように放課後の教室で、物理の宿題を片付けている最中のことだった。
「橘さん。この『フックの法則』の公式だけど、この問題の場合……」
「佐伯君」
その時、彼女は手元の教科書をパタンと閉じて僕の言葉を遮った。
「橘さん……?」
「だから佐伯君」
僕と彼女の言葉が重なった。
微妙な時間が数秒流れ、目で僕は彼女の言葉を促した。
彼女は、恥ずかしそうに呟いた。
「私のことは、「碧衣」て呼んで欲しい」
「え。あ、あおい………?!」
名前呼びだなんて。僕にはハードルが高すぎる。
「そう。碧衣」
「あおい……」
初めてその言葉を口にしてみて、なんだか面映ゆい気がする。
あおい……碧衣……
僕の可愛い碧衣……
「碧衣」
「何? 佐伯君」
にこにこと彼女が笑って僕を見つめる。
「碧衣。今度の日曜日。デートしよう」
碧衣は一瞬、驚いたように僕を見つめたが、
「……うん」
嬉しそうにはにかんだ。
◇◆◇
「素敵な演奏会だったわね」
まだ演奏の余韻に浸っているように、立ち上がることもせず僕の隣の席でうっとりと碧衣が言った。
碧衣と約束した日曜日。
僕は年の離れた姉の所属するオケの定期演奏会に碧衣を誘った。チケットは姉に融通してもらった。
僕は中学を卒業するまではピアノとチェロを嗜んでいたし、碧衣は今でもピアノを習っている。
聞けば碧衣は、アルペジオと『ツェルニー50番』やショパンの『練習曲《エチュード》』で指ならしをするのが好きだという。今、取り組んでいる曲はバッハの『平均律』にベートヴェンの後期ソナタの三十番。
それから察するに碧衣のピアノの腕前は、そこらの音大生並みかそれ以上だ。
時刻は午後四時過ぎ。
このまままっすぐ帰宅するには少し惜しい。
でも、どうしたらいいのか僕にはわからなくて、
「君はこれからどうしたい?」
と、率直に碧衣に尋ねてみた。
「あ、あのね。実は……行きたいカフェがあるの」
「カフェ?」
「友達の間で話題になってるの。花梨ちゃんがねこの前、彼氏の三浦君と行ってそれは素敵なカフェだったって。私も……」
その時、不意に碧衣は口ごもった。
「私も、何?」
「もうー。そのくらい察して」
碧衣がぷうっと頬をふくらませる。
要するに、碧衣も彼氏の僕とその素敵カフェに行きたいと。そういうことだと僕は理解した。
なんて可愛らしい女の子なんだろう、碧衣って娘(こ)は。
無論、僕がそれを拒否する理由はない。
「場所は知ってるの?」
「うん。ここから歩いて行けるところ。道は調べてきたから任せて」
「じゃあ、行こう」
そうして、僕達は市立芸術文化ホールを出てまだ青い銀杏並木の下を肩を並べて歩く。
「ベト『皇帝』のあのカデンツァ。音が個性的で良かった。ソリストはかなりのテクニシャンね。それに『ロマンティック』。やっぱり、ブルックナーの四番は何度聴いても聴き応えがあっていいわ」
碧衣が楽しげに喋っている。
僕はちらちらと隣を歩く碧衣を意識する。
薄いレーヨン生地のオフホワイト色の花柄ミモレ丈ワンピース姿の碧衣は、制服とはまた違った愛らしさがある。
こんな可愛い女の子と僕が並んで歩き、デートしているなんて。僕は我がことながら今ひとつ信じられない。
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