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8.求める本能
「碧衣、そっち向いて。首にかけてあげるから」
僕の言葉に碧衣は黙って僕に背を向け、軽く髪をかき上げた。
僕は、普段見ることのない碧衣のそのしどけないうなじに一瞬にしてハートを鷲掴みにされた。ネックレスを碧衣の首元にかけようとしながら指が震える。
しかし、ようやくネックレスは碧衣の首にかかった。
「嬉しい。佐伯君との……」
碧衣は噛みしめるようにそう呟くと、胸元のネックレスのリングをそっと握りしめる。
「ありがとう。佐伯く……」
振り向こうとした碧衣を僕は、思わずそのまま後ろから力一杯抱き締めた。
「さ、佐伯、くん……」
碧衣の細く白いうなじに口づけ、惑う碧衣をラグマットの上に押し倒し、碧衣の両手首を両手でロックオンする。
そして僕は……。
とうとう碧衣の口唇に、触れた。
それは、あの教室での口づけから二度目の口づけだった。
何度も、何度も繰り返し僕は碧衣に口づける。碧衣の口唇を情熱を持って奪う。
僕は碧衣を欲する自分がどうしても抑えられない。
そんな自分をよく知っているから……。
僕は今まで碧衣を求めずにいた。
嗚呼、けれど碧衣。
君は魅力的すぎる。
碧衣が堪えきれないように、小さな吐息を漏らす。
震えているのに。
小刻みに躰を震わせているのに。
きっと碧衣は、男の僕が怖くて堪らないはずなのに。
けれど僕は尚、碧衣の細い首筋へと口唇をずらそうとしながら、碧衣の綺麗な鎖骨の華奢な白い胸元を見た。
その瞬間。
碧衣の首元にかかっているネックレスを見て、ハッと我に返ると僕は碧衣から身を離した。
どうして僕はこうなんだ。
もっと碧衣を大事にしたいのに……。
大切に大切に、そっと扱いたいのに。
僕の男の本能は碧衣を傷つけ、汚してしまう。
「……ごめんなさい……」
床に押し倒された格好のまま、僕に顔を背けながら碧衣はぽつりとそう呟いた。
「何故。君が謝る」
謝らなければいけないのは。
罰せられなければいけないのは、僕の方なのに……。
僕は碧衣に背を向け片膝をついた。
到底、僕は碧衣の顔を見ることが出来ない。
「碧衣……?」
僕は彼女の名を呼んだ。
いつの間にか碧衣は起き上がり、そして僕の背中にそっとその身を預けてきた。
「佐伯君……好きよ」
後ろからぎゅっと碧衣は僕を抱き締める。
碧衣のまっすぐな、無垢な気持ちが伝わってくる。
碧衣はこんな僕でも許してそして、愛してくれる。
僕達の胸には安物だけど、『永遠の愛』を誓うネックレスがかかっている。
碧衣と初めて過ごした聖なる日の午後は、互いの愛と信頼と、そして幸福感に満ち溢れていた。
◇◆◇
年が明け、三学期になった。
碧衣と一緒に過ごす放課後は、空調の切られる教室ではなく、暖房の効いた別棟の図書館にいることが多くなった。
「碧衣。三年のクラスはどうする?」
いつものように碧衣と暖かい図書館で勉強しながら僕は、その日のショートルームで配布された三年生のコース選択希望書のことを碧衣に尋ねてみた。
「私は理系コース」
「やっぱり、東大目指すの?」
「ううん。先生からは勧められてるけど……現役で理Ⅲはリスキーだから」
「理Ⅲ、てことは医学部?」
「ええ、私。どうしても医師になりたいの」
その時、碧衣は真剣な瞳をして呟いた。
「医師? 何で」
「私……」
碧衣は言い淀んだが、やがて重い口を開いた。
「私。小学生の時、紅子を……妹を亡くしているの。交通事故だった。小さな紅子はダンプに轢かれて、それは無残な姿で……。その時、思ったの。私は『外科医』になって、助からない命をひとつでも多く救うんだ、て」
目を伏、掌を握り締めながら碧衣は言った。
「外科医になる。その為にその時からずっと頑張っているの」
碧衣は呟いた。
「私、現役で国立の医学部合格を目指す」
◇◆◇
「佐伯君!」
会場の受付付近で碧衣は僕を認めて、歩み寄ってきた。
「碧衣、本当に素晴らしい演奏だったよ」
僕は心底、賞賛の言葉を口にした。
高三に上がる前の春休み。
今日は碧衣の最後のピアノの発表会だった。
碧衣は、バニエで裾が自然にふんわりと広がっているシックな印象の青みががかった黒いチュールのノースリーブロングワンピースを着ている。いつもより遙かにぐんと大人っぽい。
どちらかと言えばピンク系の愛らしいワードローブが多い彼女にしては珍しい装いで、それだけにそのイメチェンぶりは酷く新鮮だ。
碧衣は、トリから三番前にショパンの『バラード一番』を弾いた。
冒頭は重々しいラルゴの7小節からなる変イ長調でのレスタティーヴォ風の序奏で始まる。中間部は二回目の第一主題がイ短調で現れ、スケルツァンドの軽快なパッセージを経てクレッシェンドで盛り上がると、そのままコーダへと続く。高速の半音階上昇から一気に下降すると印象的な繋ぎの後、最後は両手のオクターブの半音階進行がfffで下降し、劇的に華麗に締めくくられる。
非常に難易度が高く、演奏映えもする人気の高いその大曲を碧衣は華やかに、それは見事なまでに完璧に弾ききった。
「碧衣、これ……。おめでとう」
僕はラウンドタイプの白い薔薇の花束を碧衣に手渡した。赤かピンクか色を迷ったが、『純潔』という花言葉の白薔薇は清楚な彼女に相応しいと思い、白を選んだ。
「ありがとう」
碧衣は頬を紅潮させながらその花束を受け取り、そっと胸に抱える。
「あのぅ……お取り込み中、失礼」
その時、背後から女の子の声がした。
「花梨ちゃん、帆花ちゃん! 唯佳ちゃんも」
クラスメイトの彼女の親友達が、その場に立っていた。
「碧衣、すごい上手だった」
「そうそう、プロみたいだった」
「一番上手かったよね」
やはりよそ行きのおめかしをした彼女達は碧衣を取り囲み、赤いカーネーションやピンクの薔薇、ガーベラやスイトピーに、黄色いひまわりなど色とりどりの花束を各々手渡した。
「嬉しい。ありがとう」
満面の笑みで碧衣も応じている。
「碧衣、佐伯君の花束だけ持って。スマホある? 佐伯君も。二人のツーショット、撮ってあげる」
彼女の親友の中でも一番積極的な性格をしている池上(いけうえ)花梨(かりん)がそんなことを言い出した、
「え、え……」
「今更恥ずかしがらないの!碧衣。ほらほら、二人とも。そこの壁の前に立って。佐伯君もほらぁ。碧衣の肩くらい抱いてやって」
「か、花梨ちゃん……!」
かなり照れくさかったが僕は、わたわたと慌てふためいているそんな碧衣の肩をにそっと手をかけた。
「佐伯君……」
「碧衣」
僕達は見つめ合う。
「……はい! よく出来ました」
満足そうな池上のその声に僕達は、ハッと我に返った。
「碧衣も佐伯君も。二人とも良く撮れてるわよぉ」
池上はそう言ったが、恥ずかしくて僕も碧衣もその場ではろくにその写メを見ることが出来なかった。
その問題の写メを僕は帰宅後、初めて自室でまじまじと見た。確かにこれ以上はない程のアップの一枚が写ってた。
僕の贈った白薔薇の花束をそれは大事そうに胸に抱えている碧衣は、僕にその華奢な肩を抱かれて恥ずかしそうに僕を見つめ、はにかんでいる。
僕はその写メをスマホのホーム画面の壁紙に据えた。
その夜、それを見つめる僕の口元はずっと緩んでいた。
◇◆◇
三年生になって碧衣は理系コースに進み、一方僕は、私立文系コースに進んだ。クラスが別れてしまったが僕達は、変わらず放課後の時間を、休日を共に過ごしていた。
受験生だったけれど僕達は、遙かに充実した青春そのものの日々を送っていた。
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