1.遅れてきた初恋

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1.遅れてきた初恋

 彼女はいつも教室の片隅で一人ひっそりと本を読んでいた。  何の本を読んでいるんだろう……。  クラスを同じくして間もなく、いつの間にか僕は何故か彼女が気になるようになっていた。  同じ教室の空間で、周囲にはわからないように、彼女に視線を投じる。  彼女は本の世界に没頭している。  友人がいないわけではない。教室移動は仲の良い特別な女友達がいるようだし、実際、彼女のクラス内での人望は厚い方だった。  でも。  彼女は、本の世界でこそ本当の自分自身を羽ばたかせている。  この僕と同じように……。  彼女の髪はストレートのセミロング。それは綺麗な艶があり、流行りのないシンプルなボブカット。  顔立ちも、可愛い。  それは男子連中(クラスメイト)の口に上るくらいは可愛かった。  他の奴が彼女の名を口にすると、僕の心は穏やかではない。  妙にドキドキする。  胸の鼓動が速く、痛い。  気がつけばいつも、いつの間にか彼女のことを考えている。  ある雨の日。  彼女が悲しそうな顔をしている日があった。  愁いを含んだ瞳で本に視線を落とし、でも、心あらずのようだった。  パラパラと手元の本の頁を弾き、ふと動きを止めると、ひとつ溜息をつく。  外は鬱陶しい五月雨が降っている。  彼女はその様子をぼんやりと眺めている。  その気怠そうな様子さえ美しかったけれど……。  その表情を見ると僕もやるせなく悲しくなった。  彼女が楽しそうに女友達と話していたり、本の世界に嵌まって読書に没頭している様子を見ると僕は嬉しい。  彼女が喜べば嬉しいし、悲しめば哀しくなる。  実にプリミティブな感情だ。  そして、僕はずっと彼女の横顔を、頁に落とした視線の先を追うばかりだと。  そう思い知らされる。  これは……この感情は……。  そう、それは僕の十七年の人生で遅れてやってきた『初恋』だった。  ◇◆◇ 「清志郎(せいしろう)。体育館にバスケいかね?」  昼休み、クラスでも仲の良い藤井(ふじい)友希(ゆうき)が食べ終わったばかりの弁当箱を鞄にしまいながら、僕に声をかけた。 「悪い。今日はやめとく」 「また読書(ほん)かよ? お前の長身、バスケに活かさないのって勿体ないぜえ」 「わーったよ! 明日は行く」  友希がかけてきたプロレス技を上手く交わしながら、ふざけあう。  こういう自分とは違うタイプの友人がいるのは、なんとなく嬉しい。  友希が他の連中と連れだって教室を出て行ってから、僕は机から一冊本を取り出す。  しかし、頁に落としていた視線をちらりと窓際の方へと向けた。  僕の視線の先にあるものは……。  彼女……(たちばな)碧衣(あおい)は、今日もまた本を読んでいる。  僕は教室中央の自分の席から、窓際後方の彼女の席との距離感を意識する。  たった数メートル。  でも、それは僕と彼女の間に横たわっている、これ以上縮められない距離であり、空間だ。  それを淋しく残念に思いつつも、その距離感にどこか安堵している自分も感じる。  これ以上、彼女に関わるのは怖い。  自分が自分でなくなりそうな気がする。  僕なんかが彼女に近づいていけない。心底そう思う。  しかし、その時。  それは、不意に訪れた。  彼女に見とれていた僕の視線と、ふと頁から顔を上げた彼女の視線とが偶然に重なった。  彼女は大きな濡れ羽色したその両の瞳を瞬かせ、不思議そうに僕の視線を受け止めたが、次の瞬間、恥ずかしそうにさっと視線をまた本の頁へと落とした。  しくじった……。  僕は自分の迂闊さを後悔しながら、僕もまた何事もなかったように本へと視線を移す。  しかし、僕の目には彼女の愛らしい表情(かお)が焼き付いていて、思考はそれだけに占められていく。  ドキドキと高鳴る心臓(むね)。  これが……恋……。    僕は少年の心で彼女を想っていた。  ◇◆◇ 「おい、あれ……」 「結構あるじゃん」  七月、校内水泳大会。  男共が鼻の下を伸ばして、ひそひそ声で喋っている。  男子連中(ヤローども)は朝からずっとニヤけ顔だ。  女子達の水着姿が拝めるんだから当然だろう。  かくいう僕も人のことを言えた義理ではない。  僕だって成長中の思春期男子だ。  女の子のそういう姿に興味がないわけがない。  けれど、彼女の水着姿が他の男の目に晒されるのは、我慢が出来ない。   プールサイドに体育座りをしながら、無意識に彼女の姿を探している。  しかし、約三百五十名の生徒の中から彼女を探し出すのは、クラス分けがしてあるとはいえちょっと難しい。  それにしても。  彼女のスク水……考えるだけで妄想が爆発して僕の心臓は破裂しそうだ。 「女子自由形第2組。一コース、一組・(すぎ)涼香(すずか)。二コース、三組・永井(ながい)……」  場内アナウンスを聞きながら、僕の視線は三コースに釘付けになった。  彼女だ!  三コースの前に彼女が立っている。  すっと伸びた細く長い足。くびれたウエスト……。  僕は目を向けないように懸命に自分で自分に言い聞かせる。  けれど、丸みを帯びた腰、華奢な胸の谷間にどうしたって意識が集中してしまう。  そんな僕は、まっさらな純白の彼女をまるで汚泥に押し倒しているかのようだ。 「用意!」  アナウンスの声が響いた。  パン!と小さくピストルの音が鳴った。  それと同時にスタート台にいる女子が一斉にプールの中へと飛び込んだ。  彼女は綺麗なフォームですいすいと水をかく。  息継ぎもなめらかに、前へ前へと進んでゆく。  水飛沫がプールサイドへと飛んでくる。  それは、僅か約20秒ほどの間だった。  タッチの差で彼女は惜しくも二位だった。  彼女の身長はそう高い方ではない。一位の女子とは上背の差が出たと言ったところだろう。  彼女がプールの中から上がった。  ふるふると顔を左右に振り、トントンと耳の水を落としている。そんな仕草さえ彼女は(さま)になる。  彼女の白く透き通った肌は陽の光を反射し、それはキラキラと美しく水を弾いている。  まるで、ボッティチェリのヴィーナスが誕生したかのように、それは美しいを通り越し、神々しくさえあった。  僕の邪念さえ振り払うように……。  彼女のその姿が僕の脳裏にいつまでも焼き付いて離れなかった。
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