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恋、はじめました
「もう、知らないっ!」
ばっちーん、と頬を張られて、僕は夢から覚めたように目を見開いた。それから、大股でカフェを出て行く彼女の背中をぼんやりと眺める。えっと、なんでこんな状況になったんだっけ?
彼女から「会いたい」と連絡が来たのは昨日の夜。僕はそれにオーケーの返事をして、このカフェで待ち合わせをすることになったんだ。
「お客さん、大丈夫ですか?」
「え、ええ、まぁ……」
僕たちの一部始終を見ていた店長さんが心配そうに眉を歪める。僕はテーブルの上のおしぼりを使って、ひりひりする頬を冷やした。
「彼女、追い掛けなくても良いんですか?」
「あ……」
「別れようって、あれきっと本心じゃないですよ」
このカフェに着いて早々、別れ話を切り出したのは彼女だった。いきなり「私のことを愛していないでしょ?」って怖い顔で言って来た彼女に、僕はそんなことないよって返した。けど。
『分かってるんだから! 貴方の心の中って空っぽじゃない!』
『そんなことは……』
『……もう別れましょう。疲れちゃったの』
ああ、そうか。もう彼女は僕に気が無いんだな。そう思った僕は言った。
『分かった。別れよう』
『……っ!』
立ち上がる彼女。
振りかざされた手。
怒鳴り声。
『もう、知らないっ!』
そうして、僕は盛大な平手打ちと共にフラれたわけだ。痛いよ。こんな、暴力を使わなくたって良いじゃないか……。
「これ、サービスです」
「あ、どうも……」
テーブルに新しいアイスコーヒーが運ばれてきた。ストローはすでに刺さっていたので、僕は顔を近付けてそれを咥えた。砂糖とミルクの無い、苦い味が今の僕には心地良かった。
僕は店内を見渡す。幸いなことに、他に客の姿は無かった。僕の恥ずかしい姿を見たのは、この店長さんだけだ。
店長さんは、さっきまで彼女が座っていた席に腰掛けて、息を吐きながら言った。
「今からでも遅くない。連絡を入れるべきです」
「えっ? どうしてですか? 彼女から僕のことをフッてきたんですよ? あんまりしつこいと、未練たらたらみたいで嫌です」
「でも、お客さんは彼女さんのことを好きだったんでしょう?」
僕は「そうです」と真っ直ぐに頷けなかった。だって、別に僕の方から「好き」って言って付き合ったんじゃなかったから。彼女の方から告白してきて、それで「付き合ってみようかな」って思って始まった関係だったから。
そのことを店長さんに説明すると、彼は「うーん」と腕を組んで唸った。
「……分かりました。お客さん、貴方は恋をしていなかったんですね」
「えっ? いや、そういうわけでは無いと思いますよ。ちゃんと、その……どきどきとかしたし」
「ですが、心の底からは愛せなかった。それが彼女さんにはお見通しだったんですね。だから上手くいかなかった。彼女さん、きっと賭けたんですよ。貴方が別れ話に動揺するかどうか。けれど、貴方は素直に別れることを選んだ。だから、あんな感じで彼女さん怒っちゃったんですね」
「えーっ。何それ、難しい……」
僕が呟けば、店長さんはふっと笑った。
「ま、お客さんもそのうち本気で恋をすれば、いろいろなことが分かるんじゃないですかね」
「本気で恋か……」
僕って基本、受け身的だからなぁ……。
思わず溜息を吐くと、店長さんが僕のおしぼりを持つ手に触れてきた。どきり、と心臓が跳ねる。
「ぬるいですね。新しいものをお持ちしましょう」
「あ、どうも……」
立ち上がってカウンターの奥に進む店長さんの姿を、僕はぼんやりと眺めた。黒いエプロンに白いシャツ。どこにでもあるような制服を完璧に着こなす彼は格好良い。僕は彼に訊いた。
「店長さん、おいくつなんですか?」
「はい? どうして?」
「いや……恋愛経験が豊富そうだから」
「ふふ。お客さんよりは年老いてますよ。その分、豊富かもしれませんね」
新しいおしぼりを手に、店長さんが戻って来た。僕にそれを渡すのではなく、腫れた頬に直接それを引っ付ける。距離が縮まって、またしても僕の心臓がうるさいことになっていた。
「……アドバイスは苦手なのですが、ひとつだけ言えることがありますね」
店長さんが微笑む。
「恋って、落ちる時は一瞬ですよね。唐突で、気が付いたらもう虜になっていて」
「……なるほど」
そっか、これが恋なのか。
ばくばく鳴る心臓を誤魔化すように、僕はアイスコーヒーをひとくち飲んだ。頭がくらくらして、味なんか分からない。分かるのは、目の前の店長さんの瞳の中に、僕はしっかりととらわれているということだけで……。
「お客さん。私はお客さんを応援していますよ」
「は、はぁ……」
「でも、悪い男には気を付けて下さいね」
心の隙間に入り込むような、悪い男にはご用心を。
そう言って、店長さんは僕におしぼりを握らせてカウンターに戻った。
気が付けば、僕の頭の中は店長さんのことでいっぱいで……ずるい。彼はするりと僕の心に入り込み、僕の世界を変えてしまった。
「……っ」
変な汗が出て、喉がからからに乾く。僕は目の前のアイスコーヒーを一気に飲み干して、伝票を手に立ち上がった。僕を見て、店長さんは口角を上げる。
「ありがとうございます。またのご来店をお待ちしております」
余裕たっぷりに振る舞う彼の仕草にさえ、惹かれてしまう。
ああ、どうしたら良い?
こんなの、初めてだから分からないや……。
渡されたお釣りを握りしめながら、またここに来てしまうことを僕は予感した。
もう頬は痛くない。痛いのは、高鳴る胸だけだ。
神様、僕、恋をはじめました。この恋が上手くいくことをどうかお祈りさせて下さい!
……帰ってからレシートを見て、裏面に店長さんの電話番号が書かれていたのは別の話……ますます僕は、恋の深みに落ちていくのだった。
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