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左手の低い音からはじまった曲は、僕も聞いたことのある曲だった。
「主よ、人の望みの喜びよ」
「え?」
「バッハです。妹の好きな一曲なんです。自分の名前が入ってるから好きなんだそうです」
店員の説明に返事することも忘れて、僕は彼女の音に心奪われていった。
J・S・バッハ作曲のカンタータ、つまり声楽曲で、複数パートを一人で演奏しなくてはいけないので和音のバランスも必要だし旋律も上下に変わっていく。
その音の多さから、どうしたって二本の腕じゃ弾き切れないはずなのに、彼女のピアノは低音の太い音も歌うように、一人の人間が弾いているというよりもまるで連弾しているかのように聞こえてきたのだ。
そして、やはり彼女の心地良い音は変わらないままで。
だが依然として彼女は目を閉じていて、動画でなく直接見ても、そこにトリック的なものは何もなかった。
正直に言おう。僕は、彼女に一目惚れして、彼女のピアノに、一耳惚れしていたのだ。
長い髪からのぞく顔の輪郭は動画で見たときよりもシャープで、柔らかな指の動きは思っていたより軽やかで。
奏でる音は僕の記憶と寸分の違いもなくて、ただ目が閉じられている事だけが、あの映像と変わらないままだった。
「あれで目が見えないだなんて、信じられないでしょう?」
彼女の兄が、複雑そうに語りかけてくる。
「そうですね」
僕は短く、けれど心の底から同意した。
ゆっくりとした展開ながらも的確に鍵盤の位置を把握していて、素人の僕からしたらそれはマジックの一種にでも見えてしまうのだから。
その全てに見惚れていると、やがて曲は終わり、彼女の纏う空気がわずかに途切れた。
一瞬の静寂が流れたけれど、それはすぐに僕の拍手によって打ち消されたのだった。
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