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最近、僕の楽しみがひとつ増えた。
仕事から帰ってスーツを脱ぎ、ルームウェアに着替えてから、とある動画サイトを見ることだ。
その動画は『21時のピアノ弾き』
その名の通り、ピアノを弾いている動画で、彼女は毎晩21時ぴったりに最新動画をアップする。
クラシックの名曲の日もあれば練習曲のようなよく知らない曲のときもあり、またポップスをジャズ風にアレンジした即興的なものまでジャンルは様々だ。
おそらく、カフェ、そうでなくても飲食店と思しき場所で、僕でも知っているような有名な外国製のピアノを、彼女はまるで呼吸するように弾いて、そして滑らせて奏でる。
その姿は、ピアニストと言っても遜色のないものに思えた。
特筆すべき事といえば、僕が動画を見はじめてからというもの、一度も同じ曲が弾かれていないという事だ。
そしてそのレパートリーの多さにも感心するのだが、それよりも、彼女がピアノを弾いている間ずっと目を閉じていることが驚きだった。
もちろん、アングルが変われば彼女の顔が見えない時もあるのだけど、少なくとも表情が確認できる画の時は、一度も目を開けてはいなかったのだ。
それがパフォーマンスのひとつなのか、彼女がピアノを弾くときのスタイルや癖なのか、それは動画からは誰も判断できない。
彼女は、言葉も発しないから。
黒くて長い髪をおろしている時もあれば、アップというのだろうか、ひとつに纏めている時もあり、服装もデニムパンツにカットソーといったラフな装いから、ふわりとしたワンピース姿の時もあって、彼女自身の様子は日によって変わるのに、目を開けない、話さないという点においては、まるで絶対条件のように固定されていた。
そうなってくると、お気に入りの動画に出てくる彼女の顔を見てみたい、声を聞いてみたいと願うのが、きっと自然の流れだろう。
好意と好奇心とはリンクする場合が多いから。
けれど僕は、それよりも、彼女を知りたいと思うよりも、彼女のピアノをもっと聞いていたい気分になるのだ。
もちろん、僕と同じように彼女の動画を毎日の楽しみにしている視聴者の中には、彼女の瞳や声に興味がある者もいるだろう。
一種の、アイドルのプライベートを覗きたいというような願望に近いかもしれないが、それを否定するつもりはない。
こうして動画を一般公開している以上、自分が興味の対象になりえる事、彼女だってきっと分かっているはずだろうから。
そして、彼女のピアノのファンである僕としては、彼女の心地好いピアノをより多くの人が耳にするのであれば、それでいいとも思えた。
きっかけが何であっても、結果として彼女のピアノが多くの人に伝わるのであれば、それは、この動画の成功と言えるのだろうから。
彼女のピアノは、僕にとっては ”癒し” そのものだった。
仕事でくたくたになった夜、家族から離れた一人の部屋で動画のアップを座って待つ。
やがて画面から流れてくる音色は、一日をリセットするのに相応しいひとときとなってくれていた。
正直に言えば、画面に映る彼女の長い指にドキリとしてしまった事はある。
短く整えられた爪には何も色が乗ってなくて、逆に女性らしさを感じてしまったからだ。
この指先からあの音が生まれてくるのかと思うと、それはとんでもない宝物のようにも見えて、僕はたまらなくなる。
……今のところ、画面から与えられる彼女の情報といえば、これくらいだろうか。
そうして僕は、今夜も、21時になるのをデスクの前で待っているのだった。
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