44人が本棚に入れています
本棚に追加
お兄さんの頼みを引き受けてから数日後、僕は偶然にも、のぞみさんと二人きりで話す機会を得た。
カフェの定休日、のぞみさんはピアノの練習に、お兄さんはそののぞみさんの付き添いで来ていて、それを知らされていた僕が仕事の合間に二人に会いに来たのだ。
お兄さんは「いらっしゃい」といつも通り応対してくれたけれど、言外に「よろしく頼むね」という期待感みたいなものを見つけてしまい、僕は、あの話をするなら今日だろうか…との考えが過った。
15分ほど三人で会話した後、お兄さんは「買い出しに行くからのぞみをお願いできるかな」と言ってそそくさと退場してしまった。
残された僕達二人だったが、こういう状況は以前にもあったので別に珍しい事態でもなかった。
だが、やっぱりあの話をどうやって切り出そうかと思案していると、おかしな緊張感が芽生えてきてしまい、僕は少し挙動が不審になっていたようだ。
「ねえ、どうかした?」
彼女がピアノを触りながら、いつもの気安い口調で訊いた。
「何が?」
「だってなんだか、落ち着かない雰囲気だもの」
「そうかな。いつもと変わらないけど……」
僕が誤魔化すと、彼女は手慰みに鳴らしていたピアノのテンポを僅かに上げた。
「お仕事、大変?」
「ああ、まあ…変わらず、かな」
「じゃあ、疲れてるわけじゃないんだ?」
「それは大丈夫だよ」
適当に答えた僕に、彼女は、パチン、と花火や風船が弾けるように、その場の空気が変わってしまうような笑い顔を見せてくれた。
「そっか!それはよかった」
その笑顔が、僕は、とても好きだと思った。
例え、笑顔の中の目が閉じられたままだったとしても。
でも僕は、望んでしまったんだ。彼女の目を、見つめたいと。
彼女は、瞼を開けないわけじゃないと言っていた。
ただどうしても、人に見られたくないのだそうだ。
だから街中ではサングラスを着用し、『21時のピアノ弾き』の中でも閉じたままにしているのだと、そう教えてくれた。
でも、この笑顔の中に、もし彼女の瞳が加わったら、もっともっと、それはもう、手の付けられないほどの素敵なものになるんじゃないかと予感してしまうのだ。
だから僕は、その衝動に駆られるようにして、彼女に、その言葉を投げてしまっていた。
「目が見えるようになりたいとは思わないの?」
のぞみさんは、ビクリと全身を震動させて、指を止めた。そして僕の方をゆっくりと振り仰ぎ、
「え……?」
囁くように問い返した。
僕は彼女の戸惑いと、心細さのような色に染まった面持ちを見て、自分が今口走ったことの不躾さに気付き、大きく焦ってしまった。
けれど一度声に出したことを取り消す事はできないと、その勢いを借りるかたちで、今度は衝動的にならないよう注意を払って、彼女に話したのだった。
最初のコメントを投稿しよう!