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20時59分。楽な服に着替え、デスク前で深く腰かける。
チェアのキッと軋む音が、逸る気持ちを窘めているようだ。
そして定刻になり、『21時のピアノ弾き』がはじまった。
カタン、と彼女が椅子を少し後ろに動かした。
背筋を伸ばし、ペダルに右足を添える。
アングルが移り、彼女の顔が少しだけ大きく映った。
今日の彼女は長い髪をまっすぐにおろして、赤いノースリーブのワンピースを着ていた。
眉のあたりで切り揃えられた前髪の下では、いつもと変わらず目が閉じられていて。
ワンピースの色にあわせたのだろうか、リップの色は鮮やかな赤だった。
そしてまたアングルが変わり、スッと両腕が上げられ、グランドピアノの鍵盤にスタンバイされる。
フゥ…と短い呼吸の後、彼女の長い指はまるで生を受けたかのように、白と黒のキーの上を駆け出したのだった。
ああ、やっぱり彼女の音はいつも変わらないな……
今夜の曲はテンポが一段と速かった。右の指先が連続で打鍵し、左手は小刻みにリズムを刻む。右へ左へ泳ぐように動くと、トップの高い音が気持ちよく響いてきた。
この曲は、僕のつたない知識でもタイトルが分かる。
『小犬のワルツ』だ。作曲者はショパン。
よくテレビ番組やCMで使われていて、小さな犬が足元をちょこまかとまとわりつくようなイメージは、まさに『小犬のワルツ』だなという感想を持ったのを覚えている。
けれど、本当に目を閉じたまま、あんな速度でピアノを弾けるのだろうか?
手元を真上から映すアングルになっても運指は滑らかに速度を保っていて、ミスタッチなんかなさそうだ。
この動画はliveではないので、何度もプレイしたものを編集でつないでいるだけかもしれない。今の時代、やろうと思えばどんな編集でもナチュラルに見えるだろうし。
だけどどちらにしろ、この『21時のピアノ弾き』から流れてくるピアノの音色に、僕は惚れているのだから、編集云々はどうでもいいようにも思われた。
そうして、さほど長くはない一曲が終わると、僕はすぐさま拍手をおくった。
彼女まで届くわけではないけれど、気持ちの問題だ。
画面の中の彼女は、弾き終えた余韻を壊さぬように、そっと両手と足をピアノから離した。
やがて、今夜の『21時のピアノ弾き』は終演となった。
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