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「ほら、覚えてる?宗ちゃん、バイオリンの発表会が嫌でもの凄くぐずっちゃったことがあったの。でもちょうどその時、楽屋のモニターから流れてきたのぞみちゃんのピアノを聞いて、ぐずってたあなたが急に、『この子の伴奏だったら弾いてもいいよ』って言い出したの。あの頃から宗ちゃんは、本当にのぞみちゃんのピアノが大好きだったのよねえ」
しみじみと話す女性に、僕は苦笑と照れ笑いの中間くらいの笑顔で答えた。
「もちろん覚えてますよ。ピアノに関しては聞く専門ですから、好きな音は忘れません」
「結局宗ちゃんはお勉強が忙しくなって、そのあとすぐにお教室をやめちゃったから、二人のアンサンブルが叶わなくて残念に思っていたのよ」
「でも僕の下手なバイオリンと彼女のピアノとじゃ、全然つり合いませんでしたよ」
「あらそんなことないわよ。宗ちゃんだってレッスンしたら上手に弾けてたじゃない。ただ発表会が苦手だっただけでしょう?……だけどその二人がまさかこんな風になるなんてねえ……。ああ、でも、宗ちゃんからのお手紙によると、のぞみちゃんは、二人が同じお教室にいた事をまだ知らないのかしら?」
恩師からの問いを受けながら、僕は、幼い頃の思い出を手繰り寄せていた。
子供には何か楽器を一つ習わせるという両親の教育方針に従い、僕はバイオリンを習っていた。
父の知り合いの音楽関係者に紹介されたのは、ヨーロッパの音楽院出身で、当時、演奏家としての活動をリタイアしたばかりのこの女性だった。
彼女は僕の祖母と近い年齢だったけれど、バイタリティ溢れる人で、同じ音楽院出身者同士で音楽教室を作り、子供から高齢者まで、分け隔てなく音楽を教えてくれていた。
楽譜もろくに読めず、ほとんど耳で覚える僕にも優しくレッスンを続けてくれて、教室をやめてしまったあとも、よく連絡をくれていたのだ。
だからあの事故の時は、自分の教え子が二人も巻き込まれたという知らせを聞くや否や、病院まで飛んで来てくれたらしい。
もちろん、僕がそのことを知ったのはずいぶん後になってからなのだが。
そういうこともあって、僕は、この人には頭が上がらないのだ。
この人の前では、自分を取り繕ったりしても無意味なのだと、幼心からそう体に染み込んでいるのだから。
「ええ、まだ話していません。彼女のピアノに一目惚れしたなんて照れ臭くて……。それに、僕だってあの事故に遭うまでは、彼女のことを忘れてたんですから」
「ふふふ。あれから二人とも色々あったけど、本当の本当に、二人ともよく頑張ったわね。最近足はどうなの?」
「平気ですよ」
すると老婦人は背伸びをして、偉いわねと頭を撫でてきた。
ふいの出来事に、僕は恥ずかしくなってその手から逃げてしまう。
「……そんな事より、もう開演しますからお席にどうぞ。のぞみのピアノを聞いてやってください。相変わらずいい音ですよ」
老婦人は楽しそうに「はいはい」と返事した。けれどふと足を止め、
「ところで、リサイタル名の『21時のピアニスト』ってどういう意味かしら?」
興味深そうに尋ねた。
僕は受付横のポスターを見ながら、僕と彼女、二人の恩師に答えた。
「それは………秘密です」
全部を説明するには、短い時間では足りないから。
僕は、不思議そうな顔をしている先生に丁寧に会釈をしてから、受付に戻った。
そしてポスターの中の彼女を見つめる。
そこには、ピアノを奏でられる喜びを、ダークブラウンの瞳いっぱいに映した彼女がいた。
今日という日を迎えられたことに、僕こそ喜びが溢れてきそうになっていた。
21時のピアニストが、デビューするのだ。
僕は、ずっと待っていた。
夢が叶う瞬間を、彼女のそばで見守ろう。
今、彼女と一緒に生きていられる幸せを、しっかりと噛み締めながら…………
(完)
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